映画評「愛と精霊の家」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
1993年ドイツ=デンマーク=ポルトガル合作映画 監督ビレ・アウグスト
ネタバレあり

30年弱前にWOWOWで観たが、パンフレットからまた放映するのを知って、再鑑賞を前提にイサベル・アジェンデの原作「精霊たちの家」を読んでみた。短くない小説で、チリ版「百年の孤独」の趣きがあるが、原作を読んでから映画を観る楽しみと言えば、どう脚色しているかという興味に尽きようか。
 映画のお話を楽しむのを優先するので、大古典を別にすれば、初鑑賞より前に原作を読むということを僕はしない。結果的にそうなるものも稀にあるが。

チリ。金鉱発掘をしていた農園主の後裔エステバン・トルエバ(ジェレミー・アイアンズ)が富豪の娘ローサを見初めるが、彼女は政治家を目指す父親の暗殺を狙った毒にやられて急死する。トルエバは父祖の土地に戻って農園主となり、数年後ローサの妹クララ(メリル・ストリープ)と結婚を申し込む。彼女は念力と透視力と予知力のある超能力者である。
 二人は娘ブランカ(ウィノナ・ライダー)を設ける。その彼女は雇用者ペドロの孫ペドロ3世(アントニオ・バンデラス)とは幼い頃の仲良しで、遂には娘アルバを設ける。しかし、ペドロ3世は社会主義革命の指導者になった為当局に追われ、社会主義を嫌うトルエバの判断によりブランカはフランス人の伯爵と無理やり結婚させられ、アルバはその娘ということにさせられる。
 保守党議員として政治的権料を得たトルエバではあるが、社会主義革命成功の後、彼が推した軍隊はクーデターを起こし政治家を排除、ペドロ3世と関係のあるブランカは軍隊により逮捕され、拷問を受ける。それを指導するのはトルエバがインディオ娘に産ませた息子その名もエステバン・ガルシア(ヴィンセント・ギャロ)、つまり彼女の異母兄である。
 トルエバは大昔お世話をした娼館の女将に懇願し、弱みを握る将軍たちを動かして貰って娘を解放させる。解放されたブランカと孫と共に久しぶりに農園に戻って安らぎを得たトルエバは、クララの霊に慰められる。

原作では19世紀末から1970年代までという100年弱に及ぶ時間を扱うので、そのまま映画化をすれば5時間くらいの長さが必要となる。そこで脚色も担当した監督ビレ・アウグストが考えたのは、原作ではアルバであった語り手をブランカに変え、彼女一人に原作のブランカとアルバの経験を全てさせることである。
 映画では、小説のブランカが恋するペドロ2世は殆ど出番なく(クレジットを見ると出ていたらしい)、アルバの恋する3世を恋人にした。小説では60代で亡くなったクララの死後20年くらいでクーデターが起こるが、映画では彼女の死はクーデターの直前である。
 かくして都合100年の物語が50年程に圧縮されるわけである。それでも、147分という短くない尺をもってして、駆け足的な印象は禁じ得ず、どうも物足りない。

クララの超能力が生かされるのが母親の首発見というグロテスクな一幕くらいというのも、野趣溢れる小説に比べると馬力を感じない所以となっている。社会主義革命⇒反動クーデターという政変の迫力も小説のようには出ない。やはり短すぎるのだろう。

原作になかった「愛」が邦題に加わったのは妥当であったと思われる。というのも、小説のクララは結婚の時ですらトルエバを愛していず、そう彼女に告げた運命に従ったにすぎない。映画のクララは彼に惚れ込んだ結果結婚したのだから、なるほど「愛と精霊の家」である。しかし、その為彼女が自分の予知能力に従って結婚するという南米的幻想性が全く失われた。
 ここに代表されるように、彼女の能力を生かさないのは、小説との比較云々以前に、物足りないと言わねばならない。

ムーア人の誇りを持つスペイン系チリ人の物語だから、これは南米かスペインで映画化されるべきであると思う。色々不満点を挙げたが、お話は依然面白い。

「愛と哀しみの果て」に主演したメリル・ストリープが出ていることも、この邦題になった理由だろう。「愛と喝采の日々」のヒット以降「愛と○○のXX」という邦題が増えた。欧米に題名の付け方の流行というのは余りないと思うが、日本は色々とありますな。

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