映画評「ゴッドファーザーPART II」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1974年アメリカ映画 監督フランシス・フォード・コッポラ
ネタバレあり

先月少し改訂された“PART III”を最新作と思って先に見てしまった(内容を憶えていたらそんなミスもなかったのですがね)ので、この第2作も早めに再鑑賞しておくことにした。

1958年後頃、家で黄昏ているマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)は父親ヴィトーを回想する。かくして、父親ヴィトーの少年時代から巻き戻され、随時、現在とヴィトーの半生が語られる1901-1941年までの過去とが入れ替わりながら、進行する。

ここで注目すべき点は、場面転換が2か所(最初を入れれば3か所)を除いて、子供(赤ん坊)そのもの若しくは子供という言葉を以って、時にマッチカット的に、行われることである。
 つまり、この映画が家族を描いた作品であるということを、内容以上に、このアイデアによって示しているわけだが、日本のヤクザより実の家族を重視するように見えるイタリア系マフィアにあっても、ファミリーと呼ばれる組織を維持する為にはその家族を犠牲にすることがある。その非情さとそれによる苦痛を描くのが本作あるいは本シリーズの特徴と言って良いであろう。

少年ヴィトーは命の懇願に出た母親をシチリアの親分に殺された後単独ニューヨークに渡り、成長(ロバート・デニーロ)すると共にイタリア街で力を掴んでいく。
 小ボスになった頃、手数料を要求して来た大ボスを祭の騒動に乗じて暗殺する一連の場面がムードを含めて非常に良い。
 1930年頃子供4人を引き連れシチリアを訪れたヴィトーは、母親を殺した今は老けたボスを暗殺する。

片やマイケルは、身内のフランク・ペンタンジェリ(マイケル・V・ガッツォ)絡みで、静かなるユダヤ人ボス、ロス(リー・ストラスバーグ)との間に面白からぬものを覚え始める。
 革命直前のキューバでの商売模様から革命騒動に移行する辺りが、対立だけをフィーチャーしたマフィアものにはない知的な面白味がある。同時に、この一連の場面でロスが裏切ってい、それに兄フレドー(ジョン・セザール)が絡んでいたことが判明し、抗争が本格化する。
 ロスの陰謀により発生した公聴会を何とか乗り越えたマイケルは、国外逃亡を図るロスを暗殺させ、一時は証言することになっていたフランクを自殺に導き、息子アンソニーと仲良くなった兄フレドーを懐刀の手で釣り舟の上で暗殺する。

弱さが人の良さとなって現れているフレドーの暗殺が人情家の僕には残念に思えるのだが、知的さが却ってマイケルを冷徹にすることもよく理解できる。長男ソニーは直情径行が弱点であるが、マイケルは知性が強さであると同時に弱点でもある。常に内省的になる為ファミリーを維持する為の行為が彼を苦悩させるのである。中でも結果的に愛するケイ(ダイアン・キートン)が去るに及んで、ファミリーではないほうの家族を維持できないという苦悩が大きい。
 この点を考えると、「PART III」で娘を失った彼の落胆が余計に理解できようというものだ。

このシリーズは一貫してロー・キーで撮影したゴードン・ウィリスによる画面が素晴らしいのだが、観客を酔わせるムード醸成という点においてニーノ・ロータの哀愁を帯びた音楽の貢献度が、特に、日本人には大きい気がする。

第1作の時も述べたように、このシリーズには大衆的な甘さがあるので、厳しく見ると映画的完成度に疑問を呈したくなるのだが、とは言え、刺激的な内容を含んだ程良い大衆性が一般観客の心を打つということもよく解るのである。

演技陣が充実しているのは今更言うまでもない。この映画のデニーロは、横顔など、まるでルドルフ・ヴァレンティノのように美しい。彼はやはり紛れもないイタリア系であった。

2,3日前に民放衛星放送でも二週に分けた前編をやっていましたね。

この記事へのコメント

2023年01月10日 20:48
これがデニーロの出世作ですよね。アル・パチーノは第一作がそうだったですが、くせのあるパチーノより後発のデニーロのほうが幅広い役ができるせいか映画でははるかに作品に恵まれて、スターとしても格上感が出てきて、そのせいでしょうか、一時期パチーノはデニーロ意識してるなというのが見えて。はじめての共演作はそのせいで失敗してたような。

>ニーノ・ロータの哀愁を帯びた音楽の貢献度が、特に、日本人には大きい気がする。
これはほんとにそうですよね。絵もきれいですけど、あの音楽が好かった。

「ゴッドファーザー」の大ヒットで、世界的にやくざ映画がブームになって、「仁義なき戦い」もその流れに乗って出て来たそうですが。
オカピー
2023年01月11日 17:03
nesskoさん、こんにちは。

>これがデニーロの出世作ですよね。

そうですね。
この後「タクシー・ドライバー」のスターの座を射止め、重厚な「ディア・ハンター」でその地位を不動のものとする。そんな感じでしょう。

>一時期パチーノはデニーロ意識してるなというのが見えて

同じイタリア系で、性格俳優っぽいところが共通していて・・・

>絵もきれいですけど、あの音楽が好かった。

ニーノ・ロータと一時期のフランシス・レイ。最高でしたねえ。
ロータは「太陽がいっぱい」と言い、シチリア風の哀愁を漂わせて、映画を忘れられないものにしてしまう。

>「ゴッドファーザー」の大ヒットで、世界的にやくざ映画がブームになって、「仁義なき戦い」もその流れに乗って出て来たそうですが。

そう、翌1973年から数年マフィア映画がごっそり作られ輸入され、日本では「仁義なき戦い」が発表されました。こちらは「ゴッドファーザー」よりぐっと実録風ですけど。
mirage
2023年10月10日 16:36
こんにちは、オカピーさん。

この映画「ゴッドファーザーPARTⅡ」は、マフィア社会に生きる人間の現代的な自意識とその苦悩を描いた大河ドラマの第2作目で、映画史に残る名作だと思います。

この映画「ゴッドファーザーPARTⅡ」の冒頭のシーンは、アル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネが、苦悩を滲ませた沈痛な面持ちで、じっと静かに物思いにふけっている表情のクローズ・アップから始まります。
そして、ラストシーンも同様に、この若きゴッドファーザー二代目の、目の縁に小じわを刻んだ苦悶の表情のクローズ・アップで終わります。

監督のフランシス・フォード・コッポラはこの映画について、「完成した映画を見て私を含めた観客が、PARTⅡが前作の単なる続編でないと感じられれば、成功といえよう。正直なところ、私としては前作だけでは半人前だと思っている」と語っていましたが、興業的にも批評的にも成功した第一作に続けて、その物語の展開としての第二作を、第一作とは違う観点からそれ以上のものとして撮るという事は、心理的にも技術的にも難しい挑戦であったに違いありません。

PARTⅡは、この困難を乗り越えるだけの充実したコッポラ監督の野心と若さとを秘めており、前作のような華やかな魅力というものは、あまりありませんが、慎重かつ大胆な映画的な構成は、このPARTⅡを前作と連続させながらも、これから独立し、更にそれを凌駕する程の優れた知的水準の作品として完成させていると思います。

初代のゴッドファーザーであった、第一作目でマーロン・ブランドが演じたヴィトー・コルレオーネが、両親が殺されたイタリアのシシリー島から1901年、孤児のままニューヨークに移民し、そこのイタリア人街で、次第に頭角を現わし、売り出して行く過程と、故郷のシシリー島に戻って両親の復讐を果たすまでの回想を、若き日のヴィトー・コルレオーネを演じるロバート・デ・ニーロが、寡黙な中にも静かで憤怒の感情を秘めた役どころを、抑制された演技で好演していて見事です。

一方、前作の後、この映画の主人公でもあるヴィトー・コルレオーネの三男で秀才のマイケルが二代目として縄張りを継ぎ、それを拡張して、ニューヨークのアクターズ・スタジオの創設者のひとりで、俳優自身の内面にある喜びや悲しみや怒りやコンプレックスを重要視し、日頃、忘れているその微妙な感情を思い出させ、心の内側から溢れて来る感情を、体の動きや表情で具体的に表現しようとする、いわゆる、"メソッド理論"の提唱者でその演技指導も行った、リー・ストラスバーグが演じる、宿敵ハイマン・ロスとの闘いを"策略と血の粛清"で勝ち残ったものの、ダイアン・キートン演じる妻ケイに去られ、母は死に、そして組織を裏切ったジョン・カザール演じる、次男の兄フレドを殺して、組織としてのファミリーのためには、肉親としてのファミリーの愛は求めず、ただひとり、権力の頂点でじっと孤独を噛みしめる----という新しい時代のゴッドファーザーの苦悩を、アル・パチーノがその肉体的なハンディキャップを逆手にとって、厳しく張りつめた精神力で見事に演じ切っていたと思います。

この映画の中で、マフィアのドンであるマイケルは、マフィアに対する社会全般の非難が高まってくる状況の中、彼を糾弾するために召喚して、査問委員会が開かれ、彼の行動が徹底的に追及されます。

そして、段々と彼の非合法な悪事の数々が露見してくると、彼はその証人を消していきます。
厳重に護衛をされて、そばに近づくのも不可能な男を殺す手口の、冷静で計算された計画性とその実行力は、マイケルの恐ろしい程の知的な才能を物語っています。

しかし、これだけ冷酷かつ緻密な行動で、マフィアの組織を守りながら、常に苦渋に満ちた彼の表情のアップからも感じられるように、その心の中では、いつも"現代人的な自意識"というものに苛まれているのです。
そういう自意識は、先代のゴッドファーザーである彼の父親ヴィトーにはなかったのではないかと思います。

第一作ではマーロン・ブランドが演じたヴィトーが、含み声でぼそぼそとしゃべりながら、自らの権力をフルに活用していました。
しかし、そこには自らの行動に対する"懐疑"のようなものはなかったと思います。
ヴィトーは貧窮の中から身を起こして、マフィアのトップにのし上がった事への満足感に浸っている事が出来ました。

これは自分の代で出世栄達した男の、世の常であり、出世だけが生きる目的でしたから、自らの行動をいちいち疑っていたりしていたのでは、その野望が果たせません。
だが、父親が自らの腕一本で地位を築き上げた、その二代目の息子になると、当然の事ながら、タイプがガラリと変わってくると思います。

例えば父親は、貧窮からのしあがって来たので、学校もまともに出ていないが、その息子は大学まで出ています。
そして、親の稼いだ金で知性を身に付ける訳ですが、今度はその知性で父親のような生き方というものを冷静に、そして客観的にじっと観察するのです。

そこに、当然の事として、矛盾や醜悪さといったものを見出し、それについて深く考えるようになります。
マイケルも最初は父親の生き方に批判的で、マフィアに対して嫌悪感を抱いていたと思います。

しかし、マイケルはインテリであるだけに、その内面に持つ冷酷さもひときわ凄いものがあります。
そして、その内面の陰の部分には、自らのやっている事の空しさ、愚かさをじっと噛みしめるだけの"現代的な自意識"というものが横たわっているような気がします。

こうして映画は、第一作の前と後の二つの物語が並列し、それがフラッシュ・バックでジグザグに交錯するという複雑な構成をとっていて、我々、観る者に分かりづらくなる危険性を、その寸前のところで食い止める緻密な計算による演出で素晴らしい効果を上げていたと思います。

そして、この映画の中で最も印象的だったのは、マイケルを裏切ってハイマン・ロスに内通していたファミリーの中の裏切り者の兄フレドが、暗い湖上で殺害されるシーンで、窓越しに見える弟マイケルと、ボートで釣り糸を垂れる気弱な兄フレドの姿を、交互にロングの切り返しで捉えて、サスペンスを高めていき、暮れゆく静かな湖上に響くピストルの音だけで締めくくっているところは、ただ殺伐なだけのマフィア物から一線を画した、優れた人間ドラマになっていて、この兄弟それぞれが抱える悲しみや思いのつらさ、淋しさを映像だけで表現する、このコッポラ監督の演出の見事さには、本当に映画的表現の素晴らしさを感じました。
オカピー
2023年10月10日 20:43
mirageさん、こんにちは。

大衆映画的な魅力では第一作、総合的には第二作を買っています。

>"現代人的な自意識"

インテリならではのものですね。
ヴィトーにそれが希薄なのは、やはり教養の問題でしょう。
夏目漱石の小説群に通ずるかもしれません。