映画評「天才ヴァイオリニストと消えた旋律」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2018年カナダ=ハンガリー合作映画 監督フランソワ・ジラール
ネタバレあり
二日続けてフランス系カナダ人監督によるドラマである。
フランソワ・ジラール監督は、「レッド・バイオリン」(1998年)というバイオリンを狂言回しにしたドラマにひどく感心させられたものの、その後の作品は中位という印象に留まるものばかり。
今回もバイオリン絡みで、「ボーイ・ソプラノ」という作品もあるように、彼は音楽好きのようだが、脚本も担当した「レッド・バイオリン」に比べると落ちる。
1939年ナチスがポーランド侵攻を始めた頃、ポーランド系ユダヤ人の少年ドヴィドル(少年期:ルーク・ドイル)が、ロンドンに住む同じ年に生れた少年マーティン(少年期:ミーシャ・ハンドリー)の家に預けられ、兄弟のように育てられる。
12年後の1951年、天才ヴァイオリニストとしてコンサートを開くことになっていたドヴィドル(ジョナ・ハウアー=キング)は、マーティン(ゲラン・ハウエル)の友情や彼を12年間懸命に支えてきたその父親(スタンリー・タウンゼント)の努力と期待を裏切って、コンサート会場に現れない。全ての損害を負担した父親は、その後もドヴィドルが姿を現さないことに傷心・落胆し、命を落とす。
35年後、今では著名な審査員となったマーティン(ティム・ロス)は少年演奏者がドヴィドルの演奏前のルーティンを見出し、最終的に彼がニューヨークにいることを掴む。
ニューヨークに辿り着くまでは歴訪型ミステリーの面白さがあるが、ニューヨークでは意外とすんなり彼を発見する。ミステリー的には少々物足りない所以ながら、作者の関心は明らかにそこにはない。
彼が消えた事情を知っただけでは満足できないマーティンは、ドヴィドル(クライヴ・オーウェン)の提案した二つの条件を受け入れることで35年前のコンサートを実現させる。が、彼は“二度と探さないでほしい”という置手紙を残して再び消え去る。
敢えて肝である彼が消えた事情を梗概から除いたが、その事情こそ監督というより原作者ノーマン・レブレヒトが言いたかったことなのである。
彼が消えたのは、収容所での生死が不明だった家族全員の死を偶然にもユダヤ街にあるユダヤ教会の中で知った為。それは長大な歌になって残っていたのである。一時神を捨てた彼はこの出来事に神が彼を見捨てなかったことを確信、再び宗教に帰る。
家族の死を知ってロンドンの精神病院に送り込まれた同じユダヤ人ヴァイオリニストを一年に一度訪問するのも、個を捨てたユダヤ世界人として、彼の精神を癒す為であろう。
かくして少なからず打算的に物質世界に生きて来たドヴィドルが精神世界に入るという魂の変遷を描いた作品という点で一定程度評価できる一方、現状の扱いでは最終的にホロコーストを非難する作品という印象を越えられない。
フランス系カナダ人ということで思い出すドニ・ヴィルヌーヴならもっと哲学的に処理したのではないか。
「ハリー・ポッター」以降、ファンタジー映画の邦題に「XXと○○」というテンプレートの利用が激増し、一般映画にまでそれが及んでいる。欧米人は題名を重視しないが、日本人は違う。題名で内容を知らないと見る気にならないらしい。
2018年カナダ=ハンガリー合作映画 監督フランソワ・ジラール
ネタバレあり
二日続けてフランス系カナダ人監督によるドラマである。
フランソワ・ジラール監督は、「レッド・バイオリン」(1998年)というバイオリンを狂言回しにしたドラマにひどく感心させられたものの、その後の作品は中位という印象に留まるものばかり。
今回もバイオリン絡みで、「ボーイ・ソプラノ」という作品もあるように、彼は音楽好きのようだが、脚本も担当した「レッド・バイオリン」に比べると落ちる。
1939年ナチスがポーランド侵攻を始めた頃、ポーランド系ユダヤ人の少年ドヴィドル(少年期:ルーク・ドイル)が、ロンドンに住む同じ年に生れた少年マーティン(少年期:ミーシャ・ハンドリー)の家に預けられ、兄弟のように育てられる。
12年後の1951年、天才ヴァイオリニストとしてコンサートを開くことになっていたドヴィドル(ジョナ・ハウアー=キング)は、マーティン(ゲラン・ハウエル)の友情や彼を12年間懸命に支えてきたその父親(スタンリー・タウンゼント)の努力と期待を裏切って、コンサート会場に現れない。全ての損害を負担した父親は、その後もドヴィドルが姿を現さないことに傷心・落胆し、命を落とす。
35年後、今では著名な審査員となったマーティン(ティム・ロス)は少年演奏者がドヴィドルの演奏前のルーティンを見出し、最終的に彼がニューヨークにいることを掴む。
ニューヨークに辿り着くまでは歴訪型ミステリーの面白さがあるが、ニューヨークでは意外とすんなり彼を発見する。ミステリー的には少々物足りない所以ながら、作者の関心は明らかにそこにはない。
彼が消えた事情を知っただけでは満足できないマーティンは、ドヴィドル(クライヴ・オーウェン)の提案した二つの条件を受け入れることで35年前のコンサートを実現させる。が、彼は“二度と探さないでほしい”という置手紙を残して再び消え去る。
敢えて肝である彼が消えた事情を梗概から除いたが、その事情こそ監督というより原作者ノーマン・レブレヒトが言いたかったことなのである。
彼が消えたのは、収容所での生死が不明だった家族全員の死を偶然にもユダヤ街にあるユダヤ教会の中で知った為。それは長大な歌になって残っていたのである。一時神を捨てた彼はこの出来事に神が彼を見捨てなかったことを確信、再び宗教に帰る。
家族の死を知ってロンドンの精神病院に送り込まれた同じユダヤ人ヴァイオリニストを一年に一度訪問するのも、個を捨てたユダヤ世界人として、彼の精神を癒す為であろう。
かくして少なからず打算的に物質世界に生きて来たドヴィドルが精神世界に入るという魂の変遷を描いた作品という点で一定程度評価できる一方、現状の扱いでは最終的にホロコーストを非難する作品という印象を越えられない。
フランス系カナダ人ということで思い出すドニ・ヴィルヌーヴならもっと哲学的に処理したのではないか。
「ハリー・ポッター」以降、ファンタジー映画の邦題に「XXと○○」というテンプレートの利用が激増し、一般映画にまでそれが及んでいる。欧米人は題名を重視しないが、日本人は違う。題名で内容を知らないと見る気にならないらしい。
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