映画評「オートクチュール」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2021年フランス映画 監督シルヴィー・オハヨン
ネタバレあり
ロバート・オルトマン監督の作品に「プレタコルテ」(1994年)という群像劇があるが、こちらは我々庶民には手の出ない高級仕立服の裏方たるアトリエに迫る。といってもぐっと個人的なお話に終始するわけだが。
クリスチャン・ディオールのアトリエを指揮管理するベテランお針子ナタリー・バイが、悪友スーメ・ボクームの盗んだ鞄を返しに来たアラブ娘リナ・クードリの手を見て気に入り、強引にアトリエの見習いにしてしまう。
先進国で虐げられ母親に愛されないリナはすれっからしで言葉遣いも悪いが、どこかに人生を立て直したいという思いもあるらしく、きつく当たられて出て行ったり追い出されたりしても最終的に舞い戻って来る。
実はナタリーの方にも娘と暫く連絡を取っていないという事情があり、代替的な疑似親子の関係が形成されているのであるが、些か作劇的に不満なのは、ナタリーと娘との関係がリナに言われて観客が初めて明確に気づかされることである。
事前にナタリーと娘の関係を匂わせておけば、二人の師弟関係が同時に疑似的な母と娘の関係であるとぐっと自然に知ることができ、もっと素直に二人の関係に浸れることが出来たと思う。
師弟関係が同時に疑似親子関係であるという点でクリント・イーストウッドの秀作「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)に似ていて、あるいは参考にしたところがあるだろうか? 確かかの作品でも娘の存在は明確には示されていず、終幕に明らかにされる手紙の宛先によって解るという仕組みが却って上手さを感じさせたが、この作品はそれが中途半端なのである。
お話に戻ると、ナタリーは手を負傷してリナを含めた、人間関係が今一つうまく行っていない後輩たちに任せることになるのだが、何とかショー開催に漕ぎつける。
かくして、映画は互いの肉親に対する秘められた愛情と、母親に倣ってキリスト教に帰依したアラブ娘の人間としての成長とを見せる内容となっている。
そこに複数の民族、複数の宗教、トランスジェンダー、階級の問題をそこはかとなく絡めて展開しているのがいかにも現在の作品らしいが、その扱い自体は自然で好感が持てる。作劇的に些か極端な嫌いがあるものの、進行自体は無難。
シルヴィーさん、オハヨン(お早う)。
2021年フランス映画 監督シルヴィー・オハヨン
ネタバレあり
ロバート・オルトマン監督の作品に「プレタコルテ」(1994年)という群像劇があるが、こちらは我々庶民には手の出ない高級仕立服の裏方たるアトリエに迫る。といってもぐっと個人的なお話に終始するわけだが。
クリスチャン・ディオールのアトリエを指揮管理するベテランお針子ナタリー・バイが、悪友スーメ・ボクームの盗んだ鞄を返しに来たアラブ娘リナ・クードリの手を見て気に入り、強引にアトリエの見習いにしてしまう。
先進国で虐げられ母親に愛されないリナはすれっからしで言葉遣いも悪いが、どこかに人生を立て直したいという思いもあるらしく、きつく当たられて出て行ったり追い出されたりしても最終的に舞い戻って来る。
実はナタリーの方にも娘と暫く連絡を取っていないという事情があり、代替的な疑似親子の関係が形成されているのであるが、些か作劇的に不満なのは、ナタリーと娘との関係がリナに言われて観客が初めて明確に気づかされることである。
事前にナタリーと娘の関係を匂わせておけば、二人の師弟関係が同時に疑似的な母と娘の関係であるとぐっと自然に知ることができ、もっと素直に二人の関係に浸れることが出来たと思う。
師弟関係が同時に疑似親子関係であるという点でクリント・イーストウッドの秀作「ミリオンダラー・ベイビー」(2004年)に似ていて、あるいは参考にしたところがあるだろうか? 確かかの作品でも娘の存在は明確には示されていず、終幕に明らかにされる手紙の宛先によって解るという仕組みが却って上手さを感じさせたが、この作品はそれが中途半端なのである。
お話に戻ると、ナタリーは手を負傷してリナを含めた、人間関係が今一つうまく行っていない後輩たちに任せることになるのだが、何とかショー開催に漕ぎつける。
かくして、映画は互いの肉親に対する秘められた愛情と、母親に倣ってキリスト教に帰依したアラブ娘の人間としての成長とを見せる内容となっている。
そこに複数の民族、複数の宗教、トランスジェンダー、階級の問題をそこはかとなく絡めて展開しているのがいかにも現在の作品らしいが、その扱い自体は自然で好感が持てる。作劇的に些か極端な嫌いがあるものの、進行自体は無難。
シルヴィーさん、オハヨン(お早う)。
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