映画評「明日は来らず」

☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1937年アメリカ映画 監督レオ・マッケリー
ネタバレあり

小津安二郎が「東京物語」(1953年)で参考にしたと言われるレオ・マッケリー監督作品である。
 有名な映画の割に僕が最初に観たのは比較的最近で、25年は経っていないと思う。若い人にしてみれば大昔でしょうけどね。

結婚して50年経つヴィクター・ムーアとボーラ・ボンディの老夫婦がもはや仕事もなく、家を人手に渡す羽目になる。比較的近くに二人の息子と娘が住んでいるが、子供たちにも色々と事情があり、父親は長女夫婦の家に、母親は長男夫婦(トーマス・ミッチェル、フェイ・ベインター)の家に暫定的に別々に引き取られる。
 しかし、どちらの夫婦も早く出て行ってもらいたいと思ってい、長男は母親を女性専門の老人ホームを入れることを考える。長女は病気を患っている父親の為と称してもう一人の姉妹のいるカリフォルニアに父親を送ろうとする。
 老母は長男夫婦の意向を察して自ら老人ホームに入ると子供たちに宣言、一人カリフォルニアへ旅立つ夫にはそのことを黙って、50年前に新婚旅行に行ったニューヨークを夫と再訪、最後の一日を満喫する。

「東京物語」以上に、核家族化が進んだ上での老人問題を厳しく考えさせる先見の明に驚かされる。
 厳密には、アメリカは日本に比べれば大家族の習慣は薄いであろうし、マッケリーがそこまで確信的に問題を考えたというより、老いた両親と子供の関係という普遍的な問題を直球的に捉えたのだと思う。現在深刻になった老人問題に苦しめられているが為に我々の目に勝手に先見の明と映るわけだろう。

洞察力さえあれば年齢を問わない内容ではあるものの、とりわけこの老夫婦に近い年齢の観客あるいはそうした老親を持つ観客には、身に沁みるお話である。
 ユーモラスに夫婦を捉えていても、生きたまま引き裂かれてしまう老夫婦の抱える心情は「東京物語」の夫婦より苦しいのではないか。子供を思って自ら老人ホームに身を投じることを決心し、夫を心配させない為に黙って見送る老妻の心情を思うと悲しすぎる。ニューヨーク再訪の場面はしみじみ味わい深いが、この場面での心情も夫と妻とでは実は全然違うわけで、それを思うだけでも切なくなってしまう。

子供たちが親を遠ざけるのは必ずしも非情だからではなく、憎まれ役ではある彼らの心情も同情に価すると思う。

我が国の来るべき少子化の未来をそこはかとなく予感させる内容を含むホームドラマを作っていた小津が昭和38年に亡くなった後、昭和40年代には既に、核家族化と女性の社会進出が進んでやがて少子化に転ずると読めたはずなのに、日本はその後四半世紀、平成の初めまで人口抑制策を採っていたというのだから、誠に情なくなる。右派の大好きな財界も、低賃金と男女差別で少子化に大貢献した。その財界も今頃になって賃金問題が少子化に直結していることを自覚した模様。先進国では人権意識が結果的に国力を上げるのだ。

この記事へのコメント

十瑠
2023年01月25日 11:42
未見ですし、作品名も記憶にありません。
レオ・マッケリ―ですか。
覚えておこう。
身につまされそうなお話ですなぁ・・
オカピー
2023年01月25日 21:09
十瑠さん、こんにちは。

>未見ですし、作品名も記憶にありません。

おおっ、そうですか。
僕が学生の時に出版された、脚本家・猪俣勝人氏のベストセラー「世界映画名作全史<戦前編>」を持っている人にはお馴染みなんですよ。
モカ
2023年01月28日 13:25
こんにちは。

本作は「東京物語」の元ネタとして紹介されているのを何かで読んだのですが、監督のレオ・マッケリーを俳優のレオ・マッカーンと勘違いして、そうすると年齢的におかしいのでなんか変やなぁ〜と思った記憶があります。
当たり前だけど全く別人ですね。
レオ・マッケリーって「ちびっこギャング」にギャグを提供していた人でしたか!

と言う事でamazonプライムで視聴いたしました。おっしゃる様に核家族問題を先取りしていますが私はこの時代のアメリカ映画特有のスイートな香りを感じました。
若干甘い…

ジェラルディン・ペイジの「バウンティフルへの旅」をまた観たくなりました。

動物のなかで年老いた親の世話をするのは人間だけらしいですね。
日本猿なんてどうなんでしょうね。親の蚤取りくらいはやってそうですけど^_^

モカ
2023年01月28日 13:27
追記

すいません忘れてました。
この邦題は原題と意味が逆じゃありませんか?
ご教示願います。
オカピー
2023年01月28日 18:46
モカさん、こんにちは。

>監督のレオ・マッケリーを俳優のレオ・マッカーンと勘違い

あははは。

マッケリーは、日本では「我が道を往く」で一番知られているでしょう。
ことわざのようにこのまま使われていますものねえ。往という漢字が時代でしょうか。

>若干甘い…

戦前のアメリカ映画では仕方がないでしょう。
アメリカ映画がリアリズムを重視して厳しくなるのは戦後ですし、それでも大半の大衆映画はまだまだ甘かったと思います。

>ジェラルディン・ペイジの「バウンティフルへの旅」

良い映画でしたね。
余りに色々と見るので細かくは憶えていないのですが。

>日本猿なんてどうなんでしょうね。
>親の蚤取りくらいはやってそうですけど^_^

先年我が家の近くの碓氷峠で、日本猿のグループを発見したので暫く止まって観ていると、蚤取りを。しているのが親だったのか子だったのか、解りませんが。
 因みに、碓氷峠の日本猿は日光のように人なれしていないので、止まっても襲われたりしません(今のところ)。

>この邦題は原題と意味が逆じゃありませんか?

逆ですね。
当時の配給会社の人は、逆説的に捉えたか、あるいは子供たちが(親を犠牲にして)「明日に進む」と捉えたのかもしれませんね。

「もう恋なんてしない」という槇原敬之の歌がありますが、歌詞はそんなことは絶対言わないという否定なんですね。
モカ
2023年01月28日 21:52
ご教示ありがとうございます。やはりそうでしたか。英語もだめだけど「来らず」とかいうのも苦手でして… 原題のほうが逆説的なニュアンスがこもっているのかもしれませんね。

クリスティーは「そして誰もいなくなった」の戯曲版と本とは結末を変えているらしく(戯曲版は未読ですが)、理由は劇場にお芝居を観に行った人にはそこそこにいい気持ちで帰宅してもらいたいというクリスティーの思いがあったらしいです。
戦前の映画も同じようなスタンスだったのでしょうね。私も映画の基本は娯楽だと思ってはいるんですけどね。

そう言えば、地獄谷の温泉に入るお猿さん達はこの大寒波で温泉に浸かりっぱなしになっているんでしょうかね〜 こう寒いと湯冷めして濡れた毛が凍らないかと心配です。
あ、雄は温泉に入らないらしいですね。体を濡らすと体格が小さく見えて雄の上位争いに不利になるとか…雄って…なんかアホですなぁ ^_^
オカピー
2023年01月29日 16:58
モカさん、こんにちは。

>原題のほうが逆説的なニュアンスがこもっているのかもしれませんね。

そう思えます。
アメリカ人に、どう捉えたか訊きたいもの。

>クリスティー
>理由は劇場にお芝居を観に行った人にはそこそこにいい気持ちで帰宅してもらいたい
>戦前の映画も同じようなスタンスだったのでしょうね。

同感。
実際にはビターエンドでも、後味は悪くしない、という感じでしょう。

>雄は温泉に入らないらしいですね。体を濡らすと体格が小さく見えて雄の上位争いに不利になるとか…雄って…なんかアホですなぁ ^_^

アホなんです^^;
タリバンのイスラム原理主義者の男たちも似たようなものです。女性が勉強したら、自分達より上を行くと怖れているのでしょうよ。