映画評「未完の対局」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1982年日本=中国合作映画 監督・佐藤純弥、段吉順
ネタバレあり
40年ぶりの再鑑賞。日中の関係が良かった頃の合作映画である。
本作は、満州事変以降の日本の戦争行為をアジア解放の為と信じている右派全体主義者には自虐的と映るだろうが、そもそも大衆的なアングルから国家という、実はその時代ごとの一握りの上層部集団の為したことについて悪く述べることがどうして自虐なのか僕には理解できない。我が家(庶民)が隣家(権力者)について語るのだから、悪く言おうと良く言おうとそれは自分のことではない。
そういう見地で見れば、この作品は一部集団同士によって惹き起こされた戦争という大事件に翻弄された弱者の悲劇を描いているので、日本VS中国なんてことはどうでも良い。事実か否かも大して重要ではない。どちらにしても五十歩百歩なのだから。
全体主義者と宗教人は芸術を素直に楽しめない可哀想な人たちである。
翻って、太平洋戦争は国民によって引き起こされたという面がないわけでもなさそうだが、それとて大本を糺せば上層部に責任がある筈である。日本に加害者責任はあると思う一方、それを起したのは日本人が悪だからなどと思っているわけでもない。時代の力学によって引き起こされたものと考える。植民地主義に走った先進国は似たり寄ったりだから、どの国の方が良いだの悪いだのと言っても無意味である。
さて、1924年から本作のお話は始まる。
日本の碁名人・三國連太郎が中国地方の碁名人・孫道臨と対局するが、官憲の介入により中断する。三國は彼の息子の能力に惚れ込み日本に連れ帰ろうとするも、その時には実現しない。数年後中国国内が乱れたこともあって孫は息子を日本を送る。
三國の下で実力を付けたその息子(青年時:沈冠初)は1941年に天聖位を勝ち取ると、実権を握った軍部は帰化を命令するが、それを断って、闘う為に密かに中国へ渡ろうとした為に密航を試みたカドで射殺される。彼の妻となった三國の娘・紺野美沙子はその場にいた為に発狂して数年後に死んでしまう。
戦後そうとは知らぬ孫は行方不明の息子を日本に探し続け、やがてその死を知り、その原因が三國にあると思い込んで復讐を考える。
1960年三國が孫(まご)伊藤つかさを連れ、婿の遺骨を持って彼を訪問する。実際の経緯を知ってもまだ怒りを抑えきれない孫(そん)も孫(まご、ややこしいですな)つかさちゃんの説明により、骨壺に母親の骨も入っていることを知り、その憎しみの呪縛を解き放つ。
恐らく彼は気付いたのである、三國もまた自分と同じ苦しみを味わってきたことを。最後に二人は万里の長城で中断したかつての対局を語り合う。
ほのぼのとして実に良い幕切れだ。それまでの涙が気持ち良いものに変わる。
日中二国の監督ががっちりそれまでの過程を展開させて見応えがあったが故の快さである。国家と国民の関係を見つめながら見れば、退屈する暇などないだろう。
国境・国家は時に個人を守ってくれもするが、その存在の為に為政者の如何により個人が犠牲になることも多い。民主主義が独裁・専制主義より多少マシなのは個人の犠牲がより少ないということなのだ。
日本は事実上アメリカの属国で、ハト派の岸田首相が宗旨替えして防衛費倍増を打ち出したのも原発政策の転換をしたのも、全てアメリカの意向と思って間違いない。防衛費を増やすことが抑止力増加に繋がると言うが、軍備における唯一の抑止力は核兵器を持つことである。核を持つ中国は日本が幾ら一般兵器を増やしても何とも思わない(が、日本を叩く口実は出来る)。インドとパキスタン、イスラエルとイラン(現在は持っていないが)の関係を見るべし。これに関して右派全体主義者の心情も解らないではないが、左派の論理性に一歩譲る気がする。
1982年日本=中国合作映画 監督・佐藤純弥、段吉順
ネタバレあり
40年ぶりの再鑑賞。日中の関係が良かった頃の合作映画である。
本作は、満州事変以降の日本の戦争行為をアジア解放の為と信じている右派全体主義者には自虐的と映るだろうが、そもそも大衆的なアングルから国家という、実はその時代ごとの一握りの上層部集団の為したことについて悪く述べることがどうして自虐なのか僕には理解できない。我が家(庶民)が隣家(権力者)について語るのだから、悪く言おうと良く言おうとそれは自分のことではない。
そういう見地で見れば、この作品は一部集団同士によって惹き起こされた戦争という大事件に翻弄された弱者の悲劇を描いているので、日本VS中国なんてことはどうでも良い。事実か否かも大して重要ではない。どちらにしても五十歩百歩なのだから。
全体主義者と宗教人は芸術を素直に楽しめない可哀想な人たちである。
翻って、太平洋戦争は国民によって引き起こされたという面がないわけでもなさそうだが、それとて大本を糺せば上層部に責任がある筈である。日本に加害者責任はあると思う一方、それを起したのは日本人が悪だからなどと思っているわけでもない。時代の力学によって引き起こされたものと考える。植民地主義に走った先進国は似たり寄ったりだから、どの国の方が良いだの悪いだのと言っても無意味である。
さて、1924年から本作のお話は始まる。
日本の碁名人・三國連太郎が中国地方の碁名人・孫道臨と対局するが、官憲の介入により中断する。三國は彼の息子の能力に惚れ込み日本に連れ帰ろうとするも、その時には実現しない。数年後中国国内が乱れたこともあって孫は息子を日本を送る。
三國の下で実力を付けたその息子(青年時:沈冠初)は1941年に天聖位を勝ち取ると、実権を握った軍部は帰化を命令するが、それを断って、闘う為に密かに中国へ渡ろうとした為に密航を試みたカドで射殺される。彼の妻となった三國の娘・紺野美沙子はその場にいた為に発狂して数年後に死んでしまう。
戦後そうとは知らぬ孫は行方不明の息子を日本に探し続け、やがてその死を知り、その原因が三國にあると思い込んで復讐を考える。
1960年三國が孫(まご)伊藤つかさを連れ、婿の遺骨を持って彼を訪問する。実際の経緯を知ってもまだ怒りを抑えきれない孫(そん)も孫(まご、ややこしいですな)つかさちゃんの説明により、骨壺に母親の骨も入っていることを知り、その憎しみの呪縛を解き放つ。
恐らく彼は気付いたのである、三國もまた自分と同じ苦しみを味わってきたことを。最後に二人は万里の長城で中断したかつての対局を語り合う。
ほのぼのとして実に良い幕切れだ。それまでの涙が気持ち良いものに変わる。
日中二国の監督ががっちりそれまでの過程を展開させて見応えがあったが故の快さである。国家と国民の関係を見つめながら見れば、退屈する暇などないだろう。
国境・国家は時に個人を守ってくれもするが、その存在の為に為政者の如何により個人が犠牲になることも多い。民主主義が独裁・専制主義より多少マシなのは個人の犠牲がより少ないということなのだ。
日本は事実上アメリカの属国で、ハト派の岸田首相が宗旨替えして防衛費倍増を打ち出したのも原発政策の転換をしたのも、全てアメリカの意向と思って間違いない。防衛費を増やすことが抑止力増加に繋がると言うが、軍備における唯一の抑止力は核兵器を持つことである。核を持つ中国は日本が幾ら一般兵器を増やしても何とも思わない(が、日本を叩く口実は出来る)。インドとパキスタン、イスラエルとイラン(現在は持っていないが)の関係を見るべし。これに関して右派全体主義者の心情も解らないではないが、左派の論理性に一歩譲る気がする。
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