映画評「弟とアンドロイドと僕」
☆☆★(5点/10点満点中)
2020年日本映画 監督・阪本順治
ネタバレあり
阪本順治は概ね解りやすい映画を作るが、この作品は難解である。表面的には一人暮らしの孤独な中年教授の生活を綴っているが、ミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」(1966年)に似て、実存主義的な映画である。
映画は、一人の中年男性が雨の降る野外で救急車に運び込まれるところから始まる。実はこの場面を憶えていると後の理解が大分しやすくなる。
実際には、元来映像記憶が悪い上に、最近は年齢のせいか集中力を欠く傾向があって、すっかり忘れていた為後段の理解が覚束なくなかった。ちょっと気になるところをチェックする為に部分的に見直して気づいたのである。
片脚が自分とは思えない時があって “けんけん” して歩くことがある変わり者の中年理系教授・豊川悦司は、両親(元来は亡母の実家)の残した廃病院で自分にそっくりのアンドロイドを作っている。少年時代亡くなる前に母親が残した“孤独に堪えてもう一人の自分を見つけること”という言葉がベースにある。
教授は妊娠した少女・片山友希と知り合い、恐らく堕胎してやろうと家に連れて来るが,“僕には殺せない”と言って少女を帰す。
ある時母親の違う弟・安藤政信が訪れ、父親の危篤を告げる。病院に駆け付けた彼は、弟とその母・風祭ゆきに “延命措置をしたい” と訴える。
兄とは違う意味で問題児の弟は妻(元妻?)の交際相手を刺したらしく、復縁の為にお金が要ると言って家にやって来て家と土地に関する権利書を要求する。聞き入れて貰えないと知ると、兄が精魂を込めて完成させたアンドロイドを破壊する。
これを悲しんだ豊川は弟を殺し、父が死んだ病院で異常行動を取り、やがて自殺するのである。
冒頭に出て来た被救助者が彼で、コンビニでの記録から正体が知られる。映画はその過程を巻き戻す形で進行していたわけだが、さらに謎めいたエピローグがある。
全編を通して降っていた雨の代りに雪が降る廃病院を少女が訪れ、教授が死ぬ前に直したのか、そこにいた教授のアンドロイドと手を握り合う。その前の少女の主観ショットは、モノクロの歪んだものである。それを考えると、整合性を取るのが難しいところもあるが、この少女は、教授が作った母親のアンドロイドだったのではないか?
多分実際には少女は存在しない。彼女は、豊川が自転車の下で死んでいた雀の死体を見た後に唐突に声を掛けるのだが、その現れ方を見ても、彼同様鏡の中を自分を見ることができなそうな風情を見ても、そう理解するのがふさわしいような気がする。
彼あるいは彼らは実存主義哲学における対自という概念を持てない為に自分を見出せない。二人は相手を通して初めて対自し、それにより自身の存在を見るのである。
こうした解釈がもう少し確信を持てるようになれば、もっと☆★を増やせる。現状では一人合点のところが多いということで採点を低めにしておきます。
「部屋とYシャツと私」という曲がありましたねえ。調べたらもう31年も経つのですってさ。
2020年日本映画 監督・阪本順治
ネタバレあり
阪本順治は概ね解りやすい映画を作るが、この作品は難解である。表面的には一人暮らしの孤独な中年教授の生活を綴っているが、ミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」(1966年)に似て、実存主義的な映画である。
映画は、一人の中年男性が雨の降る野外で救急車に運び込まれるところから始まる。実はこの場面を憶えていると後の理解が大分しやすくなる。
実際には、元来映像記憶が悪い上に、最近は年齢のせいか集中力を欠く傾向があって、すっかり忘れていた為後段の理解が覚束なくなかった。ちょっと気になるところをチェックする為に部分的に見直して気づいたのである。
片脚が自分とは思えない時があって “けんけん” して歩くことがある変わり者の中年理系教授・豊川悦司は、両親(元来は亡母の実家)の残した廃病院で自分にそっくりのアンドロイドを作っている。少年時代亡くなる前に母親が残した“孤独に堪えてもう一人の自分を見つけること”という言葉がベースにある。
教授は妊娠した少女・片山友希と知り合い、恐らく堕胎してやろうと家に連れて来るが,“僕には殺せない”と言って少女を帰す。
ある時母親の違う弟・安藤政信が訪れ、父親の危篤を告げる。病院に駆け付けた彼は、弟とその母・風祭ゆきに “延命措置をしたい” と訴える。
兄とは違う意味で問題児の弟は妻(元妻?)の交際相手を刺したらしく、復縁の為にお金が要ると言って家にやって来て家と土地に関する権利書を要求する。聞き入れて貰えないと知ると、兄が精魂を込めて完成させたアンドロイドを破壊する。
これを悲しんだ豊川は弟を殺し、父が死んだ病院で異常行動を取り、やがて自殺するのである。
冒頭に出て来た被救助者が彼で、コンビニでの記録から正体が知られる。映画はその過程を巻き戻す形で進行していたわけだが、さらに謎めいたエピローグがある。
全編を通して降っていた雨の代りに雪が降る廃病院を少女が訪れ、教授が死ぬ前に直したのか、そこにいた教授のアンドロイドと手を握り合う。その前の少女の主観ショットは、モノクロの歪んだものである。それを考えると、整合性を取るのが難しいところもあるが、この少女は、教授が作った母親のアンドロイドだったのではないか?
多分実際には少女は存在しない。彼女は、豊川が自転車の下で死んでいた雀の死体を見た後に唐突に声を掛けるのだが、その現れ方を見ても、彼同様鏡の中を自分を見ることができなそうな風情を見ても、そう理解するのがふさわしいような気がする。
彼あるいは彼らは実存主義哲学における対自という概念を持てない為に自分を見出せない。二人は相手を通して初めて対自し、それにより自身の存在を見るのである。
こうした解釈がもう少し確信を持てるようになれば、もっと☆★を増やせる。現状では一人合点のところが多いということで採点を低めにしておきます。
「部屋とYシャツと私」という曲がありましたねえ。調べたらもう31年も経つのですってさ。
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