映画評「アニエスによるヴァルダ」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2019年フランス映画 監督アニエス・ヴァルダ
ネタバレあり
アニエス・ヴァルダはまだ元気そうだと思って、Allcinemaに伺ったところ、この映画を遺作として2019年に亡くなっていた。それを読んで、新聞で訃報を読んだ記憶が蘇って来た。
名(題名)は体を表すの伝で、アニエス・ヴァルダ自身によるセルフ・ポートレイト映画である。
日本では映画館で観られたようだが、元来はTVドキュメンタリーらしい。フランスでは1時間ずつ2回に分けて放映された模様。確かに前半と後半で若干趣が違う。
前半は映画作家としての履歴を振り返るような内容で、後半は若い頃から撮ることもあったドキュメンタリーに専心し、並行して映像を使ったインスタレーション(空間芸術)活動を行っていた最後の四半世紀くらいが紹介される。彼女は映画デビュー前には写真家でもあったわけで、映画作家という以上に純粋に芸術家だったのだと思う。
若い頃から全く変わらないマッシュルーム・カットの髪型をし、80歳を過ぎてユーモアを湛えた話しぶりは好々爺ならぬ好々婆であるが、「冬の旅」に出演した当時17歳だった主演女優サンドリーヌ・ボネールには相当厳しく当たったようである。
彼女の映画製作は、ひらめき、創造、共有から成り立つと言う。ここで解りにくいのは “共有” であるが、これが彼女のドラマがドキュメンタリー寄りであり、逆にドキュメンタリーがフィクショナルである理由であるように思う。 “共有” と言うのは出演者でもある近所の人々と空間を分かち合う(出演者が観客として映画を観る)ことなどを指すようだ。
そして、さすがに彼女はアーティストである。ドキュメンタリーと雖もアーティスティックであり、最後は砂浜に吹く風の中に文字通り消えていく。もう遺作となると覚悟していたのだと思う。
もう実際にこの世にいないと思うと、最後はひどくじーんとさせられてしまう。
“~てしまう”と言えば、今話題の岸田首相。彼が何と弁明しようと、未来について述べた場合は明らかに否定的なニュアンスを伴う。しかるに、金田一秀穂氏の “悪いことに使う” というのも少し違うと思われる。現在完了や過去について述べる時には、悪いことという以上に予想外のこととして使うのである(悪いことに使うと思われてしまうのは、人は普段悪いことを想定していないから。予想外=悪いこと、になるわけである)。例えば、受かることを願って大学に受かった場合は“大学に受かった” だが、碌に勉強もせず受からないのが当然と思っていた場合 “東大に受かってしまった”という言い方が成り立つ。実際に使う人も多いであろう。未来についてはこの言い方は殆どできない(条件節としてはありうる)。従って、もし否定でも肯定でもないのであれば、最初から首相は単に“社会が変わる”と言えば良かったのである。
2019年フランス映画 監督アニエス・ヴァルダ
ネタバレあり
アニエス・ヴァルダはまだ元気そうだと思って、Allcinemaに伺ったところ、この映画を遺作として2019年に亡くなっていた。それを読んで、新聞で訃報を読んだ記憶が蘇って来た。
名(題名)は体を表すの伝で、アニエス・ヴァルダ自身によるセルフ・ポートレイト映画である。
日本では映画館で観られたようだが、元来はTVドキュメンタリーらしい。フランスでは1時間ずつ2回に分けて放映された模様。確かに前半と後半で若干趣が違う。
前半は映画作家としての履歴を振り返るような内容で、後半は若い頃から撮ることもあったドキュメンタリーに専心し、並行して映像を使ったインスタレーション(空間芸術)活動を行っていた最後の四半世紀くらいが紹介される。彼女は映画デビュー前には写真家でもあったわけで、映画作家という以上に純粋に芸術家だったのだと思う。
若い頃から全く変わらないマッシュルーム・カットの髪型をし、80歳を過ぎてユーモアを湛えた話しぶりは好々爺ならぬ好々婆であるが、「冬の旅」に出演した当時17歳だった主演女優サンドリーヌ・ボネールには相当厳しく当たったようである。
彼女の映画製作は、ひらめき、創造、共有から成り立つと言う。ここで解りにくいのは “共有” であるが、これが彼女のドラマがドキュメンタリー寄りであり、逆にドキュメンタリーがフィクショナルである理由であるように思う。 “共有” と言うのは出演者でもある近所の人々と空間を分かち合う(出演者が観客として映画を観る)ことなどを指すようだ。
そして、さすがに彼女はアーティストである。ドキュメンタリーと雖もアーティスティックであり、最後は砂浜に吹く風の中に文字通り消えていく。もう遺作となると覚悟していたのだと思う。
もう実際にこの世にいないと思うと、最後はひどくじーんとさせられてしまう。
“~てしまう”と言えば、今話題の岸田首相。彼が何と弁明しようと、未来について述べた場合は明らかに否定的なニュアンスを伴う。しかるに、金田一秀穂氏の “悪いことに使う” というのも少し違うと思われる。現在完了や過去について述べる時には、悪いことという以上に予想外のこととして使うのである(悪いことに使うと思われてしまうのは、人は普段悪いことを想定していないから。予想外=悪いこと、になるわけである)。例えば、受かることを願って大学に受かった場合は“大学に受かった” だが、碌に勉強もせず受からないのが当然と思っていた場合 “東大に受かってしまった”という言い方が成り立つ。実際に使う人も多いであろう。未来についてはこの言い方は殆どできない(条件節としてはありうる)。従って、もし否定でも肯定でもないのであれば、最初から首相は単に“社会が変わる”と言えば良かったのである。
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