映画評「アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド」

☆☆☆(6点/10点満点中)
2021年ドイツ映画 監督マリア・シュラーダー
ネタバレあり

本格SFは得てして哲学的になるが、そういう意味で本作はファンタジーでは勿論なく単なるSFでもなく、本格SF映画である。しかし、見た目はSFと意識せずに観られるファンタジー的な作り方なので、気軽にどうぞ。
 こういうコメントは通常最後にするものだが、冒頭で言ってしまった。

ベルリンの博物館で楔形文字研究に主任として没頭する中年女性学者アルマ(マレン・エッガート)が、研究資金を得る為に、人生の伴侶となるべく高性能にプログラミングされたAIアンドロイドのトム(ダン・スティーヴンズ)を宛がわれて3週間同棲し、その結果を報告する実証実験に参加する。
 元々伴侶を求める気などない彼女には、公約数に則ってプログラムされたトムの対応には不愉快な思いしか生じないが、勿論高性能AIのトムはすぐさま彼女の反応に対して個別に新たな最適解を探し当てる。それでもインテリのヒロインは、その理想に近い彼の対応もアルゴリズムによるものとして怏々たる気分に陥るだけである。
 反面、彼女がそういう気持ちになるのは、実は孤独なだけに幸福を求めているからにほかならない。彼女は色々と意地悪をして(プログラムされた結果とは言え)彼が怒る様を見るうちに彼にもアンドロイドなりの人となりがあるような気がし、妹と過ごした少女時代の初恋の人であるトム(勿論アンドロイドのトムは彼が投影されている)について語るうちに一種の錯覚が生じ、彼と過ごすことに抵抗がなくなっていく(ように僕には見えた)。
 が、錯覚による幸福に頑として抵抗する彼女は、アンドロイドを製作した企業に否定的な見解を出す。

僕が注目したのはアンドロイドの瞬きである。前半彼が見せる本当の人間とは違う違和感は、思うに全く瞬きをしないことが大きく担っている。二人の関係が大分本当の人間同士に近づいた時に彼はたまに瞬きをする(ようになる)のが見出せる。
 共同脚色を兼務する監督のマリア・シュラーダーは、恐らく瞬きに彼の変化を直接的に、あるいはそれを見るアルマの変化を間接的に示そうとしたのだと推測する。映画的にはここが面白かった。

哲学的な見方としては、伴侶を得ることによる幸福を求める手段としての立場をアンドロイドに見出さなくなる時、所有者は相手に愛情を覚えたことになるが、人は否インテリはヒロインのようにそれを実感しながらもそれを決して認めないのだ。彼らは、アンドロイドがいかに人間に近づこうとも、その接近自体がアルゴリズムによって成り立っていることを決して看過しないからである。人間はそういう器用な軌道修正ができない。そこに人間存在の、愛情の、奥深さがある。
 ファンタジーであれば、この展開であればアンドロイドはやがて人間になってしまうだろうが、本作にはそういう甘さがない。厳しくもあり、切なさも感じる映画である。

映画の出来栄えに関係ないが、本作の対訳者が気に入った。 何となれば ”記憶する” という意味の “おぼえる” を ”憶える” としているから。 ”覚える” にも “記憶する” の意味があると説明する人が多いが、 ”覚” を "記憶" に関して使う中国由来の熟語(日本由来では覚書=おぼえがき=というのがある。厳密には、これは “思い出す”の”おぼえ”であって、”記憶”とは違う)を知らないので、僕はこれに賛同しない。実際、国語辞典で “覚”(”覚え””覚える”ではないぞよ)を調べても ”記憶” に関する意味を見出さない。 よって、中学の時から文部省(現文科省)に反してずっと “憶” を使っている。文科省は一早く ”憶” を常用漢字にすべきだ。

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