映画評「あちらにいる鬼」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2022年日本映画 監督・廣木隆一
ネタバレあり

不倫はここへ来て再び大悪徳扱いになってきた。男性が支配する家を守るための儒教的観念が戻って来たかのようだ。
 コンプライアンスの問題が絡んでいることは確かであるが、自由や権利が伸張している現在だからこそ、僕には理解できない現象である。かつて不倫というのは、概ね父権社会において男性が中心になって惹き起こしたもので、その観点で反保守の方が不倫を悪とするのもあるだろうか。しかし、不倫はもっとジェンダーレスになってきていると思う。
 権利という点で言えば、配偶者の幸福という権利を損なっているという理由で騒ぐ人がいる。何年か前一年を振り返るバラエティ系番組で、女性芸人が芸能人の不倫騒動に触れて “人間じゃない” という独り言のようなコメントを放ったのが記憶に残っている。しかし、実際に非人間的なのは、不倫をされたその配偶者なのかもしれず、事情を何も知らぬ部外者がそんなことを沙汰する権利などないのである。
 人類が誕生して、恐らく奇形な子供が生まれるのを避ける為に近親相姦が避けられるようになり、相続の問題を単純化する為に不倫はいけないとなったのではないか。つまり、実際的な問題が先にあって、そこからかような道徳律が生れたのではないか、というのが僕の考えである。
 僕は不倫をお薦めする気など毫もないが、極めて好色的な目的を別にすれば、本人が幸福になる為に世間でいう “不倫(昔は不貞と言った)” をすることがあっても良いだろう。幸福になりたいと、相性の悪い配偶者と違う相手に対する欲望に突っ走れる人こそ実に人間的である、と思う。

本作は、瀬戸内寂聴こと瀬戸内晴美と井上光晴の“不倫”を主題にした人間劇である。原作は光晴の長女荒野(あれの)の長編小説で、廣木隆一が荒井晴彦の脚色を経て映像に移した。
 人物名は、瀬戸内晴美が長内みはると明らかにそれと判る名前に、井上光晴は白木篤郎という何の関連もなさそうな名前に変えられている。僕なら尾上道治くらいにしますがね。

1966年徳島県の講演会で人気作家はるみ(寺島しのぶ)は同業の好色漢・篤郎(豊川悦司)と知り合って、やがて男女の仲になる。篤郎の細君・笙子(広末涼子)は超然としたスケールの大きな人物で、夫が幾多の女性と関係を持っても気にしない。多分彼女にしてみれば肉体より精神のあり方を問題にしているのである。その意味でみはるが一番のライバルである筈だが、夫を囲んで戦う同志のような関係性があり決して敵視しない。いや、大した女性だ。
 が、民間人時代のみはる(晴美)はまだ達観し切れていないので、彼との俗的な縁を切る為に出家する。

これが凡その本作の梗概。女性のスケールの大きさに感に入る作品である。
 しかし、好色漢である篤郎と言うか井上光晴の女性遍歴も、履歴すら嘘でかためてきた全身小説家の彼にとっては嘘の一つではなかったか。実際には彼は、世間の道徳観に拘泥しない晴美より古典的な家庭観を持つ人物だったことを、家を作るというエピソードが表徴している。

この三人はみんな違ってみんな良い。その天晴な生き方に僕はかなり感動した。

一昨日被るタイトルの映画を観たなあ。「あちらにいる鬼がいる森」だったら怖い。

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