映画評「やがて海へと届く」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2022年日本映画 監督・中川龍太郎
ネタバレあり
思い出したくもない2011年3月が物語の基底にある、と判るのは話が大分進んでからである。いずれにしても前半、陰々滅々としたムードで早くもやりきれなくなった。
喪失感の物語であることは、ダイニング・バーに務めるヒロイン岸井ゆきのが、知り合いの杉野遥亮と、その恋人・浜辺美波の遺品(?)を整理することに関して交わす会話から比較的早めに判って来る。彼女は何年も前に行方知らずになっているが、これもまた中盤になり、バーの同僚・中崎敏と東北へ出かけることから3・11が絡んでいると観客は知らされる。その前半で、岸井ゆきのと浜辺美波が知り合い、訳あって同居を始め、やがて美波ちゃんが杉野君と同居するようになるという三人の関係性が、ヒロインを軸に語られる。
中盤の後半、意を決して東北へ出かけたヒロイン(と中崎)が、遺族の人々と交わる場面がある。急にドキュメンタリー調になり、河瀬直美のように、演技の混在がある場面になる。演技の混在と言うのは僕が勝手に言っている言い方で、アマチュアとプロが同じ画面に入っていることを指す。この場合はプロを素人集団の中に投げ入れて、即興的に演技をさせることが多いのだが、本作は少し感覚が違う。
(遺族の一人・中嶋朋子が回しているという設定の)ビデオ・カメラの前で、遺族と思われる4人が色々と語る。このうち最後の一人が実は新谷ゆづみという若手女優と知って、【W座からの紹介状】案内人の一人小山薫堂同様に驚いた。彼と違って、前の三人も演技者とは思わず、プロである最後の一人が前の三人と比べて何の違和感もなかったという事実に僕は驚いたのである。驚愕という表現が当てはまる。この見せ方が監督・中川龍太郎の殊勲なのではあるまいか。
岸井ゆきのと浜辺美波の演技も素晴らしい。彼女らはリアリズムの時代にあって演技に見えないような演技を力みなく披露している。今の映画観では、映画での演技は巧く見えてはダメなのである。
そして今度は、昨日の映画に少し似て、美波ちゃんを軸にほぼ同じ場面が繰り広げられる。最近の映画はこの手がちょっと多いが、ここまで同じ場面をご丁寧に繰り返すのはくどくなって良くないと思う。ここをもっと整理すれば2時間を切る映画になったと思う。
勿論そこではヒロインが知っている浜辺美波とは違う彼女の姿が見えて来る。中盤の場面で母親・鶴田真由が期せずして示すように、彼女の本当の性格は親友同様内向的なのであった。しかし、彼女は器用にそれを誤魔化すことが出来た。中でもそれを手助けするのはビデオ・カメラ。ビデオ・カメラを介すことで初めて彼女は自らのヴェールをはぐことが出来たのである。
旅から帰り、ヒロインは親友を忘れないながらも喪失感を乗り越え、天国にいるであろう親友にカメラを通して語りかけるのである。
ビートルズの楽曲のように、この映画は何度も転調もしくは転拍子する。
始まりはアニメ、普通の実写になり、途中でドキュメンタリー調を経て、通常のドラマに戻り、またアニメを挟んで、最後は即興演出である。
後半は技術的な問題があるが、陰々滅々の前半より感触が良いのは良い。映画の主題は、ヒロインが辿り着いた境地そのものだろう。死者に対しては、彼らを忘れずに自らは再生することが最高の表敬である。
転調もとい店長と言えば、光石研が自死を選ぶ店長として出て来る。これは、ヒロインの、他者とは程度の違う喪失感を点出するエピソードとなっている。
原作は、綾瀬まるの同名小説。
震災が直接の原因ではないが、母があの時期に亡くなったのは震災の結果であったような気がしている。僕の場合は、喪失感より罪悪感が自分を苦しめた。
2022年日本映画 監督・中川龍太郎
ネタバレあり
思い出したくもない2011年3月が物語の基底にある、と判るのは話が大分進んでからである。いずれにしても前半、陰々滅々としたムードで早くもやりきれなくなった。
喪失感の物語であることは、ダイニング・バーに務めるヒロイン岸井ゆきのが、知り合いの杉野遥亮と、その恋人・浜辺美波の遺品(?)を整理することに関して交わす会話から比較的早めに判って来る。彼女は何年も前に行方知らずになっているが、これもまた中盤になり、バーの同僚・中崎敏と東北へ出かけることから3・11が絡んでいると観客は知らされる。その前半で、岸井ゆきのと浜辺美波が知り合い、訳あって同居を始め、やがて美波ちゃんが杉野君と同居するようになるという三人の関係性が、ヒロインを軸に語られる。
中盤の後半、意を決して東北へ出かけたヒロイン(と中崎)が、遺族の人々と交わる場面がある。急にドキュメンタリー調になり、河瀬直美のように、演技の混在がある場面になる。演技の混在と言うのは僕が勝手に言っている言い方で、アマチュアとプロが同じ画面に入っていることを指す。この場合はプロを素人集団の中に投げ入れて、即興的に演技をさせることが多いのだが、本作は少し感覚が違う。
(遺族の一人・中嶋朋子が回しているという設定の)ビデオ・カメラの前で、遺族と思われる4人が色々と語る。このうち最後の一人が実は新谷ゆづみという若手女優と知って、【W座からの紹介状】案内人の一人小山薫堂同様に驚いた。彼と違って、前の三人も演技者とは思わず、プロである最後の一人が前の三人と比べて何の違和感もなかったという事実に僕は驚いたのである。驚愕という表現が当てはまる。この見せ方が監督・中川龍太郎の殊勲なのではあるまいか。
岸井ゆきのと浜辺美波の演技も素晴らしい。彼女らはリアリズムの時代にあって演技に見えないような演技を力みなく披露している。今の映画観では、映画での演技は巧く見えてはダメなのである。
そして今度は、昨日の映画に少し似て、美波ちゃんを軸にほぼ同じ場面が繰り広げられる。最近の映画はこの手がちょっと多いが、ここまで同じ場面をご丁寧に繰り返すのはくどくなって良くないと思う。ここをもっと整理すれば2時間を切る映画になったと思う。
勿論そこではヒロインが知っている浜辺美波とは違う彼女の姿が見えて来る。中盤の場面で母親・鶴田真由が期せずして示すように、彼女の本当の性格は親友同様内向的なのであった。しかし、彼女は器用にそれを誤魔化すことが出来た。中でもそれを手助けするのはビデオ・カメラ。ビデオ・カメラを介すことで初めて彼女は自らのヴェールをはぐことが出来たのである。
旅から帰り、ヒロインは親友を忘れないながらも喪失感を乗り越え、天国にいるであろう親友にカメラを通して語りかけるのである。
ビートルズの楽曲のように、この映画は何度も転調もしくは転拍子する。
始まりはアニメ、普通の実写になり、途中でドキュメンタリー調を経て、通常のドラマに戻り、またアニメを挟んで、最後は即興演出である。
後半は技術的な問題があるが、陰々滅々の前半より感触が良いのは良い。映画の主題は、ヒロインが辿り着いた境地そのものだろう。死者に対しては、彼らを忘れずに自らは再生することが最高の表敬である。
転調もとい店長と言えば、光石研が自死を選ぶ店長として出て来る。これは、ヒロインの、他者とは程度の違う喪失感を点出するエピソードとなっている。
原作は、綾瀬まるの同名小説。
震災が直接の原因ではないが、母があの時期に亡くなったのは震災の結果であったような気がしている。僕の場合は、喪失感より罪悪感が自分を苦しめた。
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