映画評「グリーン・ナイト」

☆☆★(5点/10点満点中)
2021年アメリカ=カナダ=アイルランド合作映画 監督デーヴィッド・ロウリー
ネタバレあり

“緑の夜”って何だ? と思っていたら、Knight でした。14世紀に書かれた作者不明の長編叙事詩「ガウェイン卿と緑の騎士」の映画化。昔の文学に関しては人後に落ちないと自負していながら、僕は知らなかった。不勉強でした。

アーサー王絡みのお話だから5-6世紀のブリテン島の話になる。

あるクリスマスに、アーサー王の甥ガウェイン(デヴ・パテル)が、母親(サリタ・チョウドリー)の呪術により円卓の宴に現れた “緑の騎士” に挑まれて、その首を落とす。自らの首を拾った “緑の騎士” は “一年後に自分を探して首を落とされにやって来い” と言って去る。
 およそ1年後ガウェインは旅に出るが、泥棒グループに襲われたり、湖から頭を拾ってやった聖女によって奪われた斧を帰して貰い、妻(アリシア・ヴィカンダー)と似た城主の妻女(アリシア二役)に臨まれるなどした後、遂に “緑の騎士” を探し当てる。
 が、首を落とされる勇気が出ずに逃げようとする。この瞬間彼は頭の中で未来を幻視、その苦さに覚悟が出来ると首を差し出す。

色々と釈然としないのは、僕に集中できない理由があったからで、映画の罪とは言い切れないが、しかし集中できない理由が映画にもある。

一つ、白人役をインド系の役者がやっている。これが単独であれば、インド系は概してアーリア系なので観客を混乱させる可能性は低くさほど問題ないのだが、白人役にアフリカ系や極東民族を起用した幾つかの史劇のせいで、配役の意図が気になったのである。これもそれまでの就業機会均等による配役なら “バカヤロー” である。 繰り返すが、映画は演劇とは違ってファンタジーであっても観客が画面を現実以外の何物でもないと思って観る為、誤解を生み、作者が意図しないうちに歴史改竄になってしまいかねない。パテルも母親役のサリタ・チョウドリーも知名度の高い俳優などでそうではないと思うが、相当気になった。
 一つ、殆ど場面で画面が暗い。映画館で観れば良いかもしれないが、TVやパソコンではダメだ。午前中観ていたら何をやっているか解らないので、中断して夕方照明を付けずに観た。それでもよく解らないところがあり、困りました。

そういう集中できない状態で観たことを前提に述べると、主人公の母親が何故息子が滅びる可能性がある “緑の騎士” を呼び寄せたのか、という小さくない疑問が湧く。彼は騎士(ナイト)の称号を貰えない落ちこぼれなのは解るが、 “緑の騎士” との関連性がもう一つ不鮮明である。英雄談を作ることだったのか? 
 エンディング・ロールの後に少女が王冠を拾う。明らかに彼の娘で、Wikipedia の説明によれば映画ファンにはお馴染みのキャメロット国の継承を意味する。約束を果たさないガウェインが治めるキャメロットは不安定になるが、彼が殺されることでキャメロットは安定するのである。それを彼の幻視によって暗示するわけだが、残念ながら画面だけを見てもそこまで正確にはなかなか解らない。

もう少し明るければ画面はなかなか立派と言えるのだが。

数年もすれば就業機会均等の為の配役が誤解を生み観客の内容理解を阻害すると映画人が気付いて元に戻ると予想しているが、これが僕の予想より長く続くのであれば、僕は欧米映画の新作はもう観ないと決めている。

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