映画評「私が棄てた女」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1969年日本映画 監督・浦山桐郎
ネタバレあり

遠藤周作の「私が・棄てた・女」を浦山桐郎が映画化した苦い人間劇。
 しかし、相当重要なポイントを二か所変えているので、プロットの一部を借りた映画化というのが正しい理解だろう。とは言え、原作者の遠藤周作は、婦人科医として登場しているので、山内久の脚色にお墨付きを与えたと考えて良いのではないか。

多分1968年が主な時代背景。
 防衛庁とも取引のある自動車関連会社に勤める吉岡(河原崎長一郎)は、社長の姪マリ子(浅丘ルリ子)と相思相愛の仲になり、結婚が決まりそうな状態ながら、事あるごとに、安保闘争にも絡んでいた7年前の大学時代に捨てた東北出身の冴えない娘ミツ(小林トシエ)を思い出す。
 二人が結婚した後、彼女を売春婦として使おうと画策していた会社勤め時代からの友人しま子(夏海千佳子)は、彼女が大事に保管している彼の手紙を悪用してミツの名前でマリ子から金を強請り取ろうとする。しかし、本当のミツにそんな気はなく、もめた末に彼女は半ば自殺するような形で死ぬ。
 彼女が死んだが為にマリ子は憎むべき相手を失い、彼女を死に追いやった人物を代わりに憎むしかない。

非常に端折るとこんなお話で、「飢餓海峡」のヒロインにも似た人物設計のミツを演じた小林トシエは、タイムトラヴェルして現在岸井ゆきのとして活躍している、という幻想が湧き上がるくらい似たイメージである。

原作ではミツは一旦ハンセン病と誤診された後その療養所で働き、主人公を想いつつ、事故で死んでしまうという哀れな人生行路を辿っている。しかも、マリ子とは一時期同じ勤務先であった。
 本作では養老院に居場所を見つけ、また、マリ子とは縁もゆかりもない。この二点の変更の為に原作の持つ主題が些かぼけてしまった。つまり、ハンセン病患者に尽くすことでミツの聖女ぶりが浮かび上がり、彼女をキリストのように見るという主題である。
 映画でも、彼女が(何度も映されるお多福面が暗示するように)聖女的であることを維持し、ミツが死ぬことで一瞬にして登場人物の悪い関係を修正してしまうところに映画的昇華の凄味がある。

本作に対するネガティヴな意見に “昭和臭い” というのがあるが、それは誠に勿体ない。現在の映画にならともかく、昭和に作られた映画に対して “昭和臭い” をもって否定的に捉えるのは些か見当違いではないか? 大いに昭和臭さを楽しむべし。登場人物の男女意識に隔世の感があり、そういうのを見るのもいい勉強になる。

僕は昔観て何故か悶絶するくらい衝撃を受けたのだが、さすがに今回はそこまで行かないものの、日活映画なのに同時代的にマニアに受けていたATGを思わせるような前衛的な要素に僕は吃驚したのだと思う。背景音楽も前衛的なものをよく書いた黛敏郎で、よく合っている。

主演三人はいずれも名演。

河原崎長一郎を憶えたのは、「おれは男だ!」“小林君”の兄役でした。

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