映画評「ベネデッタ」

☆☆☆(6点/10点満点中)
2021年フランス=ベルギー=オランダ合作映画 監督ポール・ヴァーホーヴェン
ネタバレあり

17世紀イタリアを舞台にした宗教実話もの。フランス語圏での映画化なので、話される言語はフランス語。

6歳で小都市ペシアの修道院に入り尼僧になったベネデッタ(青年期:ヴィルジニー・エフィラ)は手足に聖痕(キリストと同じく手足に傷を追う)を示した結果、老尼シスター・フェリシタ(シャーロット・ランプリング)に代わって修道院長になる。老尼の娘クリスティーナ(ルイーズ・ジュヴィヨット)は自分で傷つけたのだと証言するが却って追い込まれ、自殺する。
 その頃ベネデッタは、無理矢理に修道院が引き取ることになった奔放な娘バルトロメア(ダフネ・パタキア)と同性愛行為に耽る日々を送り、それに気付いた前院長がペスト禍下に教皇大使(ランベール・ウィルソン)を連れて来て、彼女を審問に付す。バルトロメアが裏切った為にベネデッタは火刑に書されることになるが、公衆の面前で再び聖痕を現した彼女に味方をして、大使側を襲う。
 ベネデッタは、バルトロメアと逃げるものの、再び町へ戻る。

聖書は同性愛に否定的でカトリックは表面的には禁じているが、「デカメロン」や「カンタベリー物語」を読むと聖職者の同性愛は公然と行われ、16世紀くらいから少々厳しくなるが、やがてフランス革命後のフランスに始まり同性愛の非犯罪化に転じる国が増えた。
 19世紀後半に再び人々の目が厳しくなったのは産業革命の発展と無関係ではないと僕は踏んでいる。今でも言う人がいるように、同性愛者は労働力を増やすことに寄与しなかった(当時は・・・現在はそんなことはない)から。
 性愛の形態に鷹揚だった日本が厳しくなったのも、明治時代に当時の欧米の性愛に関する思想が入って来たからである。 自民党でも保守の方々が “日本に同性愛の伝統はない” と言うのは不勉強による大嘘で、 日本くらい同性愛に寛容だった国は少ない(井原西鶴「男色大鑑」参照のこと)。

こんなことを言い出したのは、ヒロインは同性愛によって裁かれたのか?という疑問があるからである。確かにきっかけはそうであるが、教皇大使が極刑を決めたのは恐らく涜神・涜職ではなかったか? 同性愛者が出て来ない作品は現在の映画ではないとばかりに映画界に強迫観念に苛まれている感さえある現在において、どうも同性愛の部分が大きく扱われてすぎているような気がする。特に鑑賞者において。

ミステリー的に言えば、映画が嘘を付いていないという前提において手足の聖痕は本物のように感じる。省略したところが多々あって厳密にはどちらとも言えないまま映画は終わるのだが、教皇大使の俗っぽさを考えると、 彼女は “本物の聖女” であるという立場を映画が取っていても不思議ではない。 聖女が性に奔放であっても必ずしも矛盾していると言えないのではないか。この辺を考えて楽しむとこの映画は面白い。

必要以上に裸が出て来るのは、監督がポール・ヴァーホーヴェン故か。

遅々としながらも着々と進歩して来たと思っていた人類が、各国権力者の横暴により、21世紀に入って、特にここ数年退行し始め、僕をうんざりさせている。日本も例外ではないが、凡ゴロばかりで僕をがっかりさせてきた最高裁がここ二打席でホームランを連発した。特に映画助成金不交付問題については、暫し強権の拡大に歯止めになると思う。

この記事へのコメント