映画評「マンダレイ」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2005年デンマーク=スウェーデン=フランス=ドイツ=イタリア=アメリカ=イギリス合作映画 監督ラース・フォン・トリアー
ネタバレあり

WOWOWによるラース・フォン・トリアー特集のうち未鑑賞の6本を観た。その最後の一編。

アメリカ三部作の第2作、というより「ドッグヴィル」の続編といった方が解りやすい。大きな書割が配置され線が引かれたスタジオで俳優たちが演じるのを見せるという趣向は前回と同じ。「ドッグヴィル」では、寓話を見せるのには良いアイデアだと当時大いに感心した。人間なるものを寓意的に見せるという意味で今回は二番煎じだから、そこまでは感心しない。

1933年。ドッグヴィルを滅ぼして父親(ウィレム・デフォー)と共に南部のマンダレイという村に到着したグレース(ブライス・ダラス・ハワード)は、未だに白人一家が黒人たちを奴隷状態のまま雇っていることに衝撃を受ける。父親はこの村を譲り受けて娘の意向に任せて去る。
 丁度臨終の床にあった支配者ママ(ローレン・バコール)が死ぬや、今から自由よと言って彼らを解放する。しかし、彼らは喜ばない。かくして一から自由の精神を教え、自ら稼ぐことを教える。
 次第にこれは良い結果に繋がっていくが、収穫物の保管場所やら家の補強の為に大量にある木(実は防風林)を伐採した結果、成長した綿花の大半は使い物にならなくなり、子供が病人になり、その為にグレースは一人の老婦人を殺害する羽目になる。
 稼いだ金を金庫番ティモシー(イザック・ド・バンコレ)が使い込んだのを知った彼女は遂に村を諦め立ち去ろうとするが、一番の知恵者ウィレム(ダニー・グローヴァー)は、彼女はママの代りに留まるべきという裁決をしたと告げる。
 この難から逃れる為にティモシーを鞭で打擲して、冒頭の状態に戻る。かくして彼女は失望の体でここを逃れるしかない。

「ドッグヴィル」では神の遣いとさえ思えたグレースは、ここでは社会の実態を知らぬただの理想主義者に過ぎない。 彼女(白人)は、 “永いこと徹底して抑圧された人々が、序盤で暗示されるように自由を持て余して、抑圧や束縛から逃れようとしない” という人間の原理を知らなかった、 というよりそれを変えることができると理想主義に燃える。どこかで黒人たちの知性を馬鹿にし、指導者として立ったつもりが、実は相手の方が賢くてその罠に嵌り、その知恵に驚いてすごすごと逃げ出すしかない。

そして、この人種関係が未だにアメリカに巣食ってい、アメリカがこの状態から脱するのは理想にすぎないのではないかとトリアーは言うのである。
 トリアーがそもそもブルジョワ的理想主義もしくは人道主義を嫌っているのはここ数作でよく解り、それをアメリカの人種問題に大々的に敷衍した形だ。「ドッグヴィル」より後味は良いが、刺激で落ちる。

英国人ジョン・シュレシンジャーが、渡ったアメリカに放った皮肉を思い出さないでもない。

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