古典ときどき現代文学:読書録2024年春号
7月1日でもないのに映画評でなく読書録なので、皆様びっくりしたことでしょう! エイプリル・フールとは関係ありません。
1年に2回だった読書録を、当座、季刊とします。その背景を説明しますと ……
読書録へのコメントが少ないと愚痴っていたら、常連のモカさんから、わけの解らないような作品が少なからず並ぶので当惑してしまう、一冊ごとにできませんか、とご注文を戴きました。
僕は、寧ろ、数多くあれば “下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる” の伝を決め込んでいたのですが、読者(笑)との間で意識に乖離があったようです。そこで一応多少考慮致しまして ……
当方、結構なスピードで読みますし、映画でもそうであるように俯瞰的に書く為の手法に慣れている都合上、松岡正剛の如く一冊ごとに書くのはどうもしんどそうなので、とりあえず3カ月に記事一本なら、前のスタンスがそのまま使えると思い、当座これで行くことにしたわけです。将来的には月刊になる可能性もありますが、まだ映画を観る本数をそこまで減らしていません。
期間が短くなることにより生まれると予想される弊害は、同じ作家や同じシリーズが増えてしまうことでしょうか。実際、芥川賞全集完読シリーズは半年前倒しになりそうです。1年後に終わる予定だった芥川賞全集(2001年上半期まで)完読は秋号で終わる予定になり、その後(2001年下半期以降)は個別に移っていきます。
そんな次第で、今後多少セレクトに影響が出て来るかもしれませんが、大古典(誰も読まないけれど、名著ばかりですぞ)をなくす予定はありません。現代ものとのバランスで減るか増えるか、は未定。サザンオールスターズではないですが、気分次第ということです。
それでは、ご笑覧あれ!
阿部 勤也
「『世間』とは何か」
★★★★実は2023年下半期に読み、書き込んだが保存せず編集ページを閉じた為に消えていたことに1月に気付き、ここに採録。ごく乱暴に言えば、日本的な『世間』と西洋的な『社会』の違いを、古代から近年までの古典書籍を通して明らかにしていく試みの文化研究の書。実は昨年7月頃に読んだので、余り丁寧に感想が書けない。悪しからず。
朱 熹(編)
「近思録」
★★★朱子学として日本でも崇められた朱熹が先輩方の意見を取り入れて編纂した儒学の書。易経に絡むところは面白くないが、多くを占める、箴言と言うべき短文には納得できるものが多い。
ロートレアモン伯(イジドール・デュカス)
「マルドロールの歌」
★★★19世紀中葉のシュールレアリスム散文詩。マルドロールは事実上の悪魔で、残忍な或いはグロテスクな描写が続く。エドガー・アラン・ポーやボードレールと関連深い。ヘヴィ・メタルを想像してみれば遠くないのではないか?
「ポエジー I 」
★★「マルドロールの歌」とスタイルは似ているが、今度は善的なものを描く。多分同作とは裏表の関係で、大して違わないのだと思う。
「ポエジー II」
★★★既成の文筆家の文章を借用して、ほぼ逆の箴言を次々と繰り出す。その中で他人の文章を使うことの意味に触れている。かなりひねくれている若者で、有名になる前に早世した。
森村 誠一
「超高層ホテル殺人事件」
★★★三件の殺人事件の密室と往復の所要時間の謎をテーマとした本格推理。序盤は松本清張的だが、二人一役、密室トリック、時間トリックの扱いが本格推理らしい。1971年発表なのにインバウンドという言葉が既に使われているのに吃驚。逆に、ソープランドという言葉は1971年にはなかったので再版時に変えられたのだろう。
志水 辰夫
「いまひとたびの」
★★★★同名の短編を冠した短編集。9編を収める。常連のモカさんに、浅田次郎「鉄道員(ぽっぽや)」に関連して紹介されたものだが、確かに最初の「赤いバス」から亡霊が出て来る。「トンネルの向こうで」「ゆうあかり」は生霊。いずれも語り手の幻想とも考えられるが、全ての作品の背後に死が揺曳する。夫婦がスローライフに思いを馳せる「夏の終わりに」が一番遠い。語り手はいずれの初老の男性で、「赤いバス」のように自ら余命を知っているか、スポーツーカーで連れ出すかつて憧れた叔母の死をめぐる「いまひとたびの」のように死の予感を覚えたりする。「七年のち」「忘れ水の記」では共に昵懇だった男女が残した娘との関係がテーマ。小道具の扱いが良い。「海の沈黙」「嘘」では友や嫂という人物の死に触れて家族に思いを馳せる。一作を除いて地方を舞台にし、せわしない都会的な生活へのアンチテーゼとなっているような滋味溢れる作品群だが、ぐっと大衆的な「鉄道員」より少し人を選ぶかもしれない。
フォード・マドックス・フォード
「かくも悲しい話を・・・」
★★★日本ではほぼ無名だが、結構多作の作家。第1次大戦直前に書かれたこの小説は、英国圏で同時代のコンラッドやジョイスやD・H・ロレンスの作品群と同じくらい評価されているらしい。主人公はアメリカの富豪で、淫乱な妻が友人と姦通しているのを知って苦しむ。これに彼の細君が絡むうち、夫婦が可愛がっている少女への思いが高まっていく。常に矛盾する心理が一人称で綴られ極めて低回的なので、読んでいるうちに鬱屈するが、上品な作品ではあると思う。作品の風味としては同時代のフォースターに近いような気がする。
イーディス・ウォートン
「歓楽の家」
★★★20世紀初めの米国上流社会をめぐる悲劇。ヘンリー・ジェイムズに似ていると思って読んでいたら、それも尤もで、交流のあった彼からアドヴァイスを受けたと文学事典に書いてある。僕の勘が見事に当たった。ヒロインは物質的に豊かな生活を得られる結婚を目指しているが、嫉妬する周囲に中傷に対して、自らの倫理観故に反論せず、次第に落ちぶれていく。最後に曙光が差したと思ったのに、僕は幕切れに悄然とした。
江戸川 乱歩
「幻影城」
★★★探偵小説について考える読み物(エッセイ)。木々高太郎が打ち出した“推理小説”論に対する乱歩の考えを読むうち、いかに探偵小説に代わり推理小説という用語が広まったか概ね解る。木々は探偵小説を含む犯罪小説、スリラー、スパイ小説、怪奇小説、SF、思想小説までそれらしい要素のあるものを全て推理小説とする説を打ち出すが、乱歩はそれではあまりに広範すぎるので、論理的な推理のあるもののみを推理小説とするのが良いとする。僕も乱歩の意見が正しいと思うが、実際には木々に近くしかしそれよりは狭くなって現在の推理小説という用語が定着したのだ。その推理小説という用語も大分廃れ気味で、もう少し範囲の広いミステリーに取って代わられている。その結果、戦後生まれの人は大体、刑事も探偵と言っていた時代があることを知らない。
「続・幻影城」
★★★★これはミステリー作家を目指す人は必読。何故ならトリックと犯行動機にあれこれが詳細に書かれているから。上記「高層ホテル殺人事件」の内容から言って森村誠一は、十中八九これを読んでいると思う。
モーリス・ルブラン
「ルパン対ホームズ」(再)
★★★小学生の時、ともかくホームズは悲劇(勿論、ルパン・シリーズの悲劇は女性に起きる)を起こした悪人扱いだった。しかし、今回読み直してみると、ちょっとした悲劇はあるけれども悲劇というほどのものではない。前作での一挿話でもとりたてて悲劇はなかった。僕は50年以上も勘違いしていたのか? 逆にガニマールはもっとしゃんとした官憲というイメージがあったが、意外と「ルパン三世」の銭形警部に似て結構ズッコケ。記憶とはかくも当てにならないものなのか。
「ルパンの冒険」(再)
★★★元は戯曲。製作者の名前が似ている為、ガニマールに相当する人物としてゲルシャールなる官憲を繰り出した。この小説版でもゲルシャールはそのまま出て来るが、ガニマールは別にいるという設定になっている。ルパンが実在する公爵になりすまして、ゲルシャールと対峙する。若干冗長なような気がするが、終盤のロマンティックな展開にルパンらしさが爆発する。
笙野 頼子
「タイムスリップ・コンビナート」
★★★第111回(1994年上半期)芥川賞受賞作。確かに夢から始まるのだが、幻想と現実の境界線が極めて曖昧なままどんどん進む。故郷や昔へのノスタルジーが沈潜している内容なのだろうけど、奇妙な面白さがあるものの、よく解らない。ある人が仰るように、安倍公房の悪品に通底する感じがあるかもしれない。
室井 光広
「おどるでく」
★★同じく第111回芥川賞受賞作。小説の形で、文学に関する衒学ぶりを披露し、言葉遊びに明け暮れる。怪小説「ドグラ・マグラ」の文学評論的小説と思えば近いだろうか。一種の幻想小説という印象も僕は持った。
保坂 和志
「この人の閾」
★★★第113回(1995年上半期)芥川賞受賞作。30代の男性が十数年ぶりに大学サークル時代の先輩女性を訪れ、子供も持った彼女の変わったところと変わっていないところを直観的に捉える。それだけのお話だが、文章は平易で、芥川賞に苦手意識のある人も読めるかもしれない。
又吉 栄喜
「豚の報い」
★★★第114回(1995年下半期)芥川賞受賞作。日本(に限らないかもしれないが)現代文学はとにかく一人称が多い。今回芥川賞受賞作を7作続けて読んだが、三人称で進められるのは本作のみ。大昔映画版も見たが内容は忘却していた。舞台は沖縄。スナックに豚が入って来たので、厄落としの為に主人公正吉がスナックのママとホステスを率いて故郷の島に渡り、既に風葬によって骨になって久しい父親の骨と対面し自得する。中盤はコミカルな要素があるが、基本的には沖縄の野趣溢れる土俗が個人的な興味。文化人類学的に沖縄はなかなか興味深い。
川上 弘美
「蛇を踏む」
★★★第115回(1996年上半期)芥川賞受賞作。今回は幻想的な作品が何故か多いのだが、こちらでは豚ではなく蛇に憑りつかれる。この蛇は人間に変身してヒロインを蛇の世界に導こうとする。ヒロインはそれを大いに嫌うわけでもなく、マンマンデーと日々を過ごすが、勿論最後は抵抗する。ギリシャの古典や日本の民話の変身ものの現代版みたいなものだが、他人は自分を理解できず、自分は他人を理解できない、というのをシュールに寓話化した作品だろう。結構解釈が難しい。
柳 美里
「家族シネマ」
★★★第116回(1996年下半期)芥川賞受賞作。映画になっていた記憶があるが、調べたら日本人も出演する韓国映画だった。崩壊した家族が仲の良い家族を演ずるセミ・ドキュメンタリーに出演するが、家族は二度とまとまることがない。小説の構成にまとまりがないのは、家族のバラバラぶりを暗喩する意図だろうか?
辻 仁成
「海峡の光」
★★★★第116回(1996年下半期)芥川賞受賞作。青函連絡船の船員から服役者訓練船に携わる刑務官に転身した主人公が、かつて善人ぶって自分を虐めていた同級生に囚人として出会う。そこで主人公は過去を回想するのである。格調高い文体だが、難しい熟語の使用に作者が使い慣れていない感がある。小説らしい小説なので、僕好みではあります。
カズオ・イシグロ
「浮世の画家」
★★★戦争が終わり、自分の時代が終わったことを痛感し時代の変容を受け入れる一方、どこかで自己肯定せずにはいられない人間を主人公にしている点で「日の名残り」に通底するが、日本を舞台にした本作は、英国を舞台にしたかの作品ほどピンと来ない。映画化されたものを先に観ているという差があるかもしれない。但し、主人公(画家)の長女が節子、次女の紀子、その次女が最初のみ会いに失敗する相手が三宅家ということで、イシグロが小津安二郎の戦後作品から名前を拝借したことが容易に伺われるのが楽しい。ヴィム・ヴェンダースの新作映画「PERFECT DAYS」も名前の小津作品からの名前の借用があるらしい。
江島 其磧
「浮世親仁形気」
★★ “うきよおやじかたぎ”と読む。浮世草子で、長編かと思っていたら、井原西鶴の「世間胸算用」のような短編集であった。初老・老人の変人奇人集。江戸時代の風俗を知るには結構良いかも。
ジャレド・ダイアモンド
「銃・病原菌・鉄」
★★★★★文化人類学的な書籍。タイトルはスペインが中南米の帝国を征服できた直接的な三大要因であるが、その一番最初の前提が大陸の形にあることにあるという指摘が目から鱗であった。要はユーラシア大陸は横に広い為に同じ栽培種や野生動物の家畜化が成立しやすく、結果的に人口が増え、優秀な人材の絶対数に繋がって新発明が起り、軍隊も強くなる。アメリカ大陸が横に広ければ、征服者と被征服者が逆になった可能性もあるというのである。短くはないが、実に面白い。イスラム圏が近世以降に一番遅れて来た欧州に遅れを取った理由として新しいものを取り込むのを回避したのが主因、と読めるところは、僕の普段考えていることと一致。
作者不明
「浜松中納言物語」
★宮廷文学はこれでほぼ全て読んだことになると思う。平安時代のトランスジェンダー物語「とりかへばや物語」は未読だが、所謂宮廷文学とは少しジャンルを異にする。さて、作者は「更級日記」を書いた菅原孝標娘とも伝えられる。輪廻転生が強く意識され、中国王朝絡みが独特の面白味を生んでいるが、中国から帰国後は似たような場面が多くて退屈を禁じ得ない。海外滞在者を主人公にしたものでは「宇津保物語」のほうがこれより面白いと思う。
ウンベルト・エーコ
「フーコーの振り子」
★★★一種の歴史ミステリー。テンプル騎士団をめぐって神秘主義・神秘学的に蘊蓄がこれでもかと出て来る衒学趣味の作品で、そういう意味では、我が邦のミステリー「黒死館殺人事件」に通じるものがある一方、訳者が軽妙な語り口に仕立てている為あのようなおどろおどろしさは皆無。何故かプルガーコフ「巨匠とマルガリータ」を思い出していたら、本当にその題名が出てきた。テンプル騎士団の秘密を調べるうち現在も脈々と続くその後続組織により危険な目に巻き込まれる出版関係者のお話で、最初は哲学的かと思っていた内容が後半はどんどん冒険小説的になり、一般読者向けのような印象が生れて来る。その中で関係者の一人が書く小説が入れ子として出て来て、彼の戦時中の体験もテンプル騎士団と関連付けられたりもする。辛抱強く読み進めれば面白くなるということ(笑)
ヘルマン・ヘッセ
「シッダールタ」
★★★★ゴータマ・シッダールタのお話かと少年時代からずっと信じていたが、何と同時代に生きていたバラモン出身の沙門(出家の苦行者)となった別人の真理探求の物語。教えからは解脱できないと悟り(これ自体が非常に高級な考えではあるまいか)、やがて色欲と金銭欲にまみれていくも、寧ろそのことから人間存在の真理に近づいていく。説明するのは難しいが、読んだ時は解ったような気になる。
「湯治客」
★★志賀直哉「城の崎にて」のドイツ版と言うべし。日本では私小説と言われるが、西洋では通常エッセイに当たる。観照的な「城の崎にて」と違ってそれなりに長くて説明的、心境そのものがもっと低回的にあるいは哲学的に、矛盾と出会えば止揚するなどして、試行錯誤の末に統一の境地を得ていく、といった感じである。夏目漱石が志賀直哉に憑依すれば、こんな感じの小説を書いたであろう。
多和田 葉子、徐 京植
「ソウル - ベルリン 玉突き書簡」
★★★★常連 nessko さんのご紹介。存在も知らなかった。多和田葉子はともかく、徐京植は昨年逝去した時新聞に名前が出たのを記憶していた程度。文筆家ではあるが小説家ではないらしい。在日韓国人でソウルに暮らしていた時期に、ベルリン定住者の多和田と、私信のような形でやりとりとした文章を書籍にしたもの。ほぼエッセイと言うべし。言語に関する言及が多く、言葉に多大な関心を持つ僕には興味深かった。僕は左脳人間だから言葉に対するアプローチも理屈っぽいが、彼ら特に多和田は小説家ならではの右脳的(例えば音声との関係)なアプローチがあり、それを左脳的に分析しているところが楽しい。
遠藤 周作
「深い河」
★★★★ヘッセの「シッダールタ」の後、偶然インドもしくは仏教絡みの作品が続く。そのまま読んでも差し支えないが、 ”ディープ・リバー” と読ませる。ヒンズー教徒が沐浴するガンジス川のことである。日本人ガイドを含め、ガンジス周辺への旅に就いた日本人男女6人の群像劇。事実上、精神の旅である。遠藤周作はキリスト教信者だから、仏教の生れたインドを無条件に賛美することはないにしても、欧州の狭隘なキリスト教哲学に疑問を覚える青年・大津を通して、包容力のある日本的キリスト教への親しみを示す。人間が教義的な宗教では対応しきれない複雑な生き物であると思わせるところに凄味がある。
ニコス・カザンザキス
「その男ゾルバ」
★★★★マイケル・カコヤニスの映画版は1980年代に観ている。野趣に横溢した見事な作品だったが、原作の小説はもっと荒々しい。と言うより、舞台となる作者の出身地ギリシャのクレタ島は第1次大戦頃まだかなり野蛮であったと思わせる。作家である ”私” が、クレタ島で父親の残した炭鉱の管理を、朴訥なしかし哲学者のようなギリシャ人ゾルバに任せるというお話。作者の分身と思わせる ”私” は、ギリシャ人だけに、魂の再生や汎神論的な考えを持っていてキリスト教ではなく仏教に傾倒しているのだが、ゾルバの言動に触れると、紙に書かれたような宗教の言葉に虚しさを覚え、時々それらを空中分解させてしまう。遠藤周作の上記作品に通底するものがあるような気がする。
アガサ・クリスティー
「スタイルズ荘の怪事件」(再)
★★★ポワロ初登場の作品として有名。高校時代かその辺りに読んだが、先に読んだ「オリエント急行殺人事件」「アクロイド殺人事件」には大分及ばないと思った。ポワロを信奉する ”私”(ヘイスティングズ)がポワロの行動を書くというスタイルは、シャーロック・ホームズ式のこの時代の定石通り、殺人事件は一件だけで、叙述トリックもない。つまり地味だが、半世紀近く前に読んで気付かなかったところで面白いのは、一事不再理の原則を犯人が利用しようとしていたという点である。
山折 哲雄
「ブッダは、なぜ子を捨てたか」
★★★図書館でヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を借りて来た帰り際に偶然にもこの本が目につき、丁度良いと思ってその次の回に借りて来た。尤も実際には「シッダールタ」がゴータマとは別人と知った時に借りるのを止めようかと思ったのだが(笑)。しかし、ブッダとなる前のゴータマがエゴの為に家出(出家ではない)と読めるこの本を読んでいるうちに、「シッダールタ」のシッダールタがゴータマと変わるところがないと思えて来たのは収穫と思う。日本の仏教はブッダを亡失しているといった意見(それ自体は正しいと思うが)など、後半トピックが散漫になっていく。
フョードル・M・ドストエフスキー
「罪と罰」(再)
★★★★★高校時代以来約50年ぶりの再読。ドストエフスキーの代表作は、15年前に3週間強の入院中に読んだ「カラマーゾフの兄弟」以外、高校時代に皆読んでいた。恐らく文学史上最も重要な小説で、善VS悪、意志(個人)VS道徳(社会)、人間VS神という問題を闡明しようとしたものだが、もっと広汎に渡る「カラマーゾフ」ほどには複雑怪奇でなく、主人公ラスコーリニコフが、超人はその目的を達成する為に邪魔する者を殺す権利を有するという抽象的理論に基づいて痛めつけた人間性自体によって、復讐されるという構図は比較的解りやすい。最後は甘めの大衆的解決と理解される危険性があるが、これは、それまでに綿々と綴って来た主人公の葛藤を有機的にする為には避けられない文学的要求なのである。予審判事ポルフィーリィと主人公との絡みは抜群に面白くミステリー作家に多大な影響(江戸川乱歩「心理試験」など)を与えているはずで、全体としてもこれほど後世の文学者や映画作家に影響を与えた小説はないと思う。
1年に2回だった読書録を、当座、季刊とします。その背景を説明しますと ……
読書録へのコメントが少ないと愚痴っていたら、常連のモカさんから、わけの解らないような作品が少なからず並ぶので当惑してしまう、一冊ごとにできませんか、とご注文を戴きました。
僕は、寧ろ、数多くあれば “下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる” の伝を決め込んでいたのですが、読者(笑)との間で意識に乖離があったようです。そこで一応多少考慮致しまして ……
当方、結構なスピードで読みますし、映画でもそうであるように俯瞰的に書く為の手法に慣れている都合上、松岡正剛の如く一冊ごとに書くのはどうもしんどそうなので、とりあえず3カ月に記事一本なら、前のスタンスがそのまま使えると思い、当座これで行くことにしたわけです。将来的には月刊になる可能性もありますが、まだ映画を観る本数をそこまで減らしていません。
期間が短くなることにより生まれると予想される弊害は、同じ作家や同じシリーズが増えてしまうことでしょうか。実際、芥川賞全集完読シリーズは半年前倒しになりそうです。1年後に終わる予定だった芥川賞全集(2001年上半期まで)完読は秋号で終わる予定になり、その後(2001年下半期以降)は個別に移っていきます。
そんな次第で、今後多少セレクトに影響が出て来るかもしれませんが、大古典(誰も読まないけれど、名著ばかりですぞ)をなくす予定はありません。現代ものとのバランスで減るか増えるか、は未定。サザンオールスターズではないですが、気分次第ということです。
それでは、ご笑覧あれ!
***** 記 *****
阿部 勤也
「『世間』とは何か」
★★★★実は2023年下半期に読み、書き込んだが保存せず編集ページを閉じた為に消えていたことに1月に気付き、ここに採録。ごく乱暴に言えば、日本的な『世間』と西洋的な『社会』の違いを、古代から近年までの古典書籍を通して明らかにしていく試みの文化研究の書。実は昨年7月頃に読んだので、余り丁寧に感想が書けない。悪しからず。
朱 熹(編)
「近思録」
★★★朱子学として日本でも崇められた朱熹が先輩方の意見を取り入れて編纂した儒学の書。易経に絡むところは面白くないが、多くを占める、箴言と言うべき短文には納得できるものが多い。
ロートレアモン伯(イジドール・デュカス)
「マルドロールの歌」
★★★19世紀中葉のシュールレアリスム散文詩。マルドロールは事実上の悪魔で、残忍な或いはグロテスクな描写が続く。エドガー・アラン・ポーやボードレールと関連深い。ヘヴィ・メタルを想像してみれば遠くないのではないか?
「ポエジー I 」
★★「マルドロールの歌」とスタイルは似ているが、今度は善的なものを描く。多分同作とは裏表の関係で、大して違わないのだと思う。
「ポエジー II」
★★★既成の文筆家の文章を借用して、ほぼ逆の箴言を次々と繰り出す。その中で他人の文章を使うことの意味に触れている。かなりひねくれている若者で、有名になる前に早世した。
森村 誠一
「超高層ホテル殺人事件」
★★★三件の殺人事件の密室と往復の所要時間の謎をテーマとした本格推理。序盤は松本清張的だが、二人一役、密室トリック、時間トリックの扱いが本格推理らしい。1971年発表なのにインバウンドという言葉が既に使われているのに吃驚。逆に、ソープランドという言葉は1971年にはなかったので再版時に変えられたのだろう。
志水 辰夫
「いまひとたびの」
★★★★同名の短編を冠した短編集。9編を収める。常連のモカさんに、浅田次郎「鉄道員(ぽっぽや)」に関連して紹介されたものだが、確かに最初の「赤いバス」から亡霊が出て来る。「トンネルの向こうで」「ゆうあかり」は生霊。いずれも語り手の幻想とも考えられるが、全ての作品の背後に死が揺曳する。夫婦がスローライフに思いを馳せる「夏の終わりに」が一番遠い。語り手はいずれの初老の男性で、「赤いバス」のように自ら余命を知っているか、スポーツーカーで連れ出すかつて憧れた叔母の死をめぐる「いまひとたびの」のように死の予感を覚えたりする。「七年のち」「忘れ水の記」では共に昵懇だった男女が残した娘との関係がテーマ。小道具の扱いが良い。「海の沈黙」「嘘」では友や嫂という人物の死に触れて家族に思いを馳せる。一作を除いて地方を舞台にし、せわしない都会的な生活へのアンチテーゼとなっているような滋味溢れる作品群だが、ぐっと大衆的な「鉄道員」より少し人を選ぶかもしれない。
フォード・マドックス・フォード
「かくも悲しい話を・・・」
★★★日本ではほぼ無名だが、結構多作の作家。第1次大戦直前に書かれたこの小説は、英国圏で同時代のコンラッドやジョイスやD・H・ロレンスの作品群と同じくらい評価されているらしい。主人公はアメリカの富豪で、淫乱な妻が友人と姦通しているのを知って苦しむ。これに彼の細君が絡むうち、夫婦が可愛がっている少女への思いが高まっていく。常に矛盾する心理が一人称で綴られ極めて低回的なので、読んでいるうちに鬱屈するが、上品な作品ではあると思う。作品の風味としては同時代のフォースターに近いような気がする。
イーディス・ウォートン
「歓楽の家」
★★★20世紀初めの米国上流社会をめぐる悲劇。ヘンリー・ジェイムズに似ていると思って読んでいたら、それも尤もで、交流のあった彼からアドヴァイスを受けたと文学事典に書いてある。僕の勘が見事に当たった。ヒロインは物質的に豊かな生活を得られる結婚を目指しているが、嫉妬する周囲に中傷に対して、自らの倫理観故に反論せず、次第に落ちぶれていく。最後に曙光が差したと思ったのに、僕は幕切れに悄然とした。
江戸川 乱歩
「幻影城」
★★★探偵小説について考える読み物(エッセイ)。木々高太郎が打ち出した“推理小説”論に対する乱歩の考えを読むうち、いかに探偵小説に代わり推理小説という用語が広まったか概ね解る。木々は探偵小説を含む犯罪小説、スリラー、スパイ小説、怪奇小説、SF、思想小説までそれらしい要素のあるものを全て推理小説とする説を打ち出すが、乱歩はそれではあまりに広範すぎるので、論理的な推理のあるもののみを推理小説とするのが良いとする。僕も乱歩の意見が正しいと思うが、実際には木々に近くしかしそれよりは狭くなって現在の推理小説という用語が定着したのだ。その推理小説という用語も大分廃れ気味で、もう少し範囲の広いミステリーに取って代わられている。その結果、戦後生まれの人は大体、刑事も探偵と言っていた時代があることを知らない。
「続・幻影城」
★★★★これはミステリー作家を目指す人は必読。何故ならトリックと犯行動機にあれこれが詳細に書かれているから。上記「高層ホテル殺人事件」の内容から言って森村誠一は、十中八九これを読んでいると思う。
モーリス・ルブラン
「ルパン対ホームズ」(再)
★★★小学生の時、ともかくホームズは悲劇(勿論、ルパン・シリーズの悲劇は女性に起きる)を起こした悪人扱いだった。しかし、今回読み直してみると、ちょっとした悲劇はあるけれども悲劇というほどのものではない。前作での一挿話でもとりたてて悲劇はなかった。僕は50年以上も勘違いしていたのか? 逆にガニマールはもっとしゃんとした官憲というイメージがあったが、意外と「ルパン三世」の銭形警部に似て結構ズッコケ。記憶とはかくも当てにならないものなのか。
「ルパンの冒険」(再)
★★★元は戯曲。製作者の名前が似ている為、ガニマールに相当する人物としてゲルシャールなる官憲を繰り出した。この小説版でもゲルシャールはそのまま出て来るが、ガニマールは別にいるという設定になっている。ルパンが実在する公爵になりすまして、ゲルシャールと対峙する。若干冗長なような気がするが、終盤のロマンティックな展開にルパンらしさが爆発する。
笙野 頼子
「タイムスリップ・コンビナート」
★★★第111回(1994年上半期)芥川賞受賞作。確かに夢から始まるのだが、幻想と現実の境界線が極めて曖昧なままどんどん進む。故郷や昔へのノスタルジーが沈潜している内容なのだろうけど、奇妙な面白さがあるものの、よく解らない。ある人が仰るように、安倍公房の悪品に通底する感じがあるかもしれない。
室井 光広
「おどるでく」
★★同じく第111回芥川賞受賞作。小説の形で、文学に関する衒学ぶりを披露し、言葉遊びに明け暮れる。怪小説「ドグラ・マグラ」の文学評論的小説と思えば近いだろうか。一種の幻想小説という印象も僕は持った。
保坂 和志
「この人の閾」
★★★第113回(1995年上半期)芥川賞受賞作。30代の男性が十数年ぶりに大学サークル時代の先輩女性を訪れ、子供も持った彼女の変わったところと変わっていないところを直観的に捉える。それだけのお話だが、文章は平易で、芥川賞に苦手意識のある人も読めるかもしれない。
又吉 栄喜
「豚の報い」
★★★第114回(1995年下半期)芥川賞受賞作。日本(に限らないかもしれないが)現代文学はとにかく一人称が多い。今回芥川賞受賞作を7作続けて読んだが、三人称で進められるのは本作のみ。大昔映画版も見たが内容は忘却していた。舞台は沖縄。スナックに豚が入って来たので、厄落としの為に主人公正吉がスナックのママとホステスを率いて故郷の島に渡り、既に風葬によって骨になって久しい父親の骨と対面し自得する。中盤はコミカルな要素があるが、基本的には沖縄の野趣溢れる土俗が個人的な興味。文化人類学的に沖縄はなかなか興味深い。
川上 弘美
「蛇を踏む」
★★★第115回(1996年上半期)芥川賞受賞作。今回は幻想的な作品が何故か多いのだが、こちらでは豚ではなく蛇に憑りつかれる。この蛇は人間に変身してヒロインを蛇の世界に導こうとする。ヒロインはそれを大いに嫌うわけでもなく、マンマンデーと日々を過ごすが、勿論最後は抵抗する。ギリシャの古典や日本の民話の変身ものの現代版みたいなものだが、他人は自分を理解できず、自分は他人を理解できない、というのをシュールに寓話化した作品だろう。結構解釈が難しい。
柳 美里
「家族シネマ」
★★★第116回(1996年下半期)芥川賞受賞作。映画になっていた記憶があるが、調べたら日本人も出演する韓国映画だった。崩壊した家族が仲の良い家族を演ずるセミ・ドキュメンタリーに出演するが、家族は二度とまとまることがない。小説の構成にまとまりがないのは、家族のバラバラぶりを暗喩する意図だろうか?
辻 仁成
「海峡の光」
★★★★第116回(1996年下半期)芥川賞受賞作。青函連絡船の船員から服役者訓練船に携わる刑務官に転身した主人公が、かつて善人ぶって自分を虐めていた同級生に囚人として出会う。そこで主人公は過去を回想するのである。格調高い文体だが、難しい熟語の使用に作者が使い慣れていない感がある。小説らしい小説なので、僕好みではあります。
カズオ・イシグロ
「浮世の画家」
★★★戦争が終わり、自分の時代が終わったことを痛感し時代の変容を受け入れる一方、どこかで自己肯定せずにはいられない人間を主人公にしている点で「日の名残り」に通底するが、日本を舞台にした本作は、英国を舞台にしたかの作品ほどピンと来ない。映画化されたものを先に観ているという差があるかもしれない。但し、主人公(画家)の長女が節子、次女の紀子、その次女が最初のみ会いに失敗する相手が三宅家ということで、イシグロが小津安二郎の戦後作品から名前を拝借したことが容易に伺われるのが楽しい。ヴィム・ヴェンダースの新作映画「PERFECT DAYS」も名前の小津作品からの名前の借用があるらしい。
江島 其磧
「浮世親仁形気」
★★ “うきよおやじかたぎ”と読む。浮世草子で、長編かと思っていたら、井原西鶴の「世間胸算用」のような短編集であった。初老・老人の変人奇人集。江戸時代の風俗を知るには結構良いかも。
ジャレド・ダイアモンド
「銃・病原菌・鉄」
★★★★★文化人類学的な書籍。タイトルはスペインが中南米の帝国を征服できた直接的な三大要因であるが、その一番最初の前提が大陸の形にあることにあるという指摘が目から鱗であった。要はユーラシア大陸は横に広い為に同じ栽培種や野生動物の家畜化が成立しやすく、結果的に人口が増え、優秀な人材の絶対数に繋がって新発明が起り、軍隊も強くなる。アメリカ大陸が横に広ければ、征服者と被征服者が逆になった可能性もあるというのである。短くはないが、実に面白い。イスラム圏が近世以降に一番遅れて来た欧州に遅れを取った理由として新しいものを取り込むのを回避したのが主因、と読めるところは、僕の普段考えていることと一致。
作者不明
「浜松中納言物語」
★宮廷文学はこれでほぼ全て読んだことになると思う。平安時代のトランスジェンダー物語「とりかへばや物語」は未読だが、所謂宮廷文学とは少しジャンルを異にする。さて、作者は「更級日記」を書いた菅原孝標娘とも伝えられる。輪廻転生が強く意識され、中国王朝絡みが独特の面白味を生んでいるが、中国から帰国後は似たような場面が多くて退屈を禁じ得ない。海外滞在者を主人公にしたものでは「宇津保物語」のほうがこれより面白いと思う。
ウンベルト・エーコ
「フーコーの振り子」
★★★一種の歴史ミステリー。テンプル騎士団をめぐって神秘主義・神秘学的に蘊蓄がこれでもかと出て来る衒学趣味の作品で、そういう意味では、我が邦のミステリー「黒死館殺人事件」に通じるものがある一方、訳者が軽妙な語り口に仕立てている為あのようなおどろおどろしさは皆無。何故かプルガーコフ「巨匠とマルガリータ」を思い出していたら、本当にその題名が出てきた。テンプル騎士団の秘密を調べるうち現在も脈々と続くその後続組織により危険な目に巻き込まれる出版関係者のお話で、最初は哲学的かと思っていた内容が後半はどんどん冒険小説的になり、一般読者向けのような印象が生れて来る。その中で関係者の一人が書く小説が入れ子として出て来て、彼の戦時中の体験もテンプル騎士団と関連付けられたりもする。辛抱強く読み進めれば面白くなるということ(笑)
ヘルマン・ヘッセ
「シッダールタ」
★★★★ゴータマ・シッダールタのお話かと少年時代からずっと信じていたが、何と同時代に生きていたバラモン出身の沙門(出家の苦行者)となった別人の真理探求の物語。教えからは解脱できないと悟り(これ自体が非常に高級な考えではあるまいか)、やがて色欲と金銭欲にまみれていくも、寧ろそのことから人間存在の真理に近づいていく。説明するのは難しいが、読んだ時は解ったような気になる。
「湯治客」
★★志賀直哉「城の崎にて」のドイツ版と言うべし。日本では私小説と言われるが、西洋では通常エッセイに当たる。観照的な「城の崎にて」と違ってそれなりに長くて説明的、心境そのものがもっと低回的にあるいは哲学的に、矛盾と出会えば止揚するなどして、試行錯誤の末に統一の境地を得ていく、といった感じである。夏目漱石が志賀直哉に憑依すれば、こんな感じの小説を書いたであろう。
多和田 葉子、徐 京植
「ソウル - ベルリン 玉突き書簡」
★★★★常連 nessko さんのご紹介。存在も知らなかった。多和田葉子はともかく、徐京植は昨年逝去した時新聞に名前が出たのを記憶していた程度。文筆家ではあるが小説家ではないらしい。在日韓国人でソウルに暮らしていた時期に、ベルリン定住者の多和田と、私信のような形でやりとりとした文章を書籍にしたもの。ほぼエッセイと言うべし。言語に関する言及が多く、言葉に多大な関心を持つ僕には興味深かった。僕は左脳人間だから言葉に対するアプローチも理屈っぽいが、彼ら特に多和田は小説家ならではの右脳的(例えば音声との関係)なアプローチがあり、それを左脳的に分析しているところが楽しい。
遠藤 周作
「深い河」
★★★★ヘッセの「シッダールタ」の後、偶然インドもしくは仏教絡みの作品が続く。そのまま読んでも差し支えないが、 ”ディープ・リバー” と読ませる。ヒンズー教徒が沐浴するガンジス川のことである。日本人ガイドを含め、ガンジス周辺への旅に就いた日本人男女6人の群像劇。事実上、精神の旅である。遠藤周作はキリスト教信者だから、仏教の生れたインドを無条件に賛美することはないにしても、欧州の狭隘なキリスト教哲学に疑問を覚える青年・大津を通して、包容力のある日本的キリスト教への親しみを示す。人間が教義的な宗教では対応しきれない複雑な生き物であると思わせるところに凄味がある。
ニコス・カザンザキス
「その男ゾルバ」
★★★★マイケル・カコヤニスの映画版は1980年代に観ている。野趣に横溢した見事な作品だったが、原作の小説はもっと荒々しい。と言うより、舞台となる作者の出身地ギリシャのクレタ島は第1次大戦頃まだかなり野蛮であったと思わせる。作家である ”私” が、クレタ島で父親の残した炭鉱の管理を、朴訥なしかし哲学者のようなギリシャ人ゾルバに任せるというお話。作者の分身と思わせる ”私” は、ギリシャ人だけに、魂の再生や汎神論的な考えを持っていてキリスト教ではなく仏教に傾倒しているのだが、ゾルバの言動に触れると、紙に書かれたような宗教の言葉に虚しさを覚え、時々それらを空中分解させてしまう。遠藤周作の上記作品に通底するものがあるような気がする。
アガサ・クリスティー
「スタイルズ荘の怪事件」(再)
★★★ポワロ初登場の作品として有名。高校時代かその辺りに読んだが、先に読んだ「オリエント急行殺人事件」「アクロイド殺人事件」には大分及ばないと思った。ポワロを信奉する ”私”(ヘイスティングズ)がポワロの行動を書くというスタイルは、シャーロック・ホームズ式のこの時代の定石通り、殺人事件は一件だけで、叙述トリックもない。つまり地味だが、半世紀近く前に読んで気付かなかったところで面白いのは、一事不再理の原則を犯人が利用しようとしていたという点である。
山折 哲雄
「ブッダは、なぜ子を捨てたか」
★★★図書館でヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を借りて来た帰り際に偶然にもこの本が目につき、丁度良いと思ってその次の回に借りて来た。尤も実際には「シッダールタ」がゴータマとは別人と知った時に借りるのを止めようかと思ったのだが(笑)。しかし、ブッダとなる前のゴータマがエゴの為に家出(出家ではない)と読めるこの本を読んでいるうちに、「シッダールタ」のシッダールタがゴータマと変わるところがないと思えて来たのは収穫と思う。日本の仏教はブッダを亡失しているといった意見(それ自体は正しいと思うが)など、後半トピックが散漫になっていく。
フョードル・M・ドストエフスキー
「罪と罰」(再)
★★★★★高校時代以来約50年ぶりの再読。ドストエフスキーの代表作は、15年前に3週間強の入院中に読んだ「カラマーゾフの兄弟」以外、高校時代に皆読んでいた。恐らく文学史上最も重要な小説で、善VS悪、意志(個人)VS道徳(社会)、人間VS神という問題を闡明しようとしたものだが、もっと広汎に渡る「カラマーゾフ」ほどには複雑怪奇でなく、主人公ラスコーリニコフが、超人はその目的を達成する為に邪魔する者を殺す権利を有するという抽象的理論に基づいて痛めつけた人間性自体によって、復讐されるという構図は比較的解りやすい。最後は甘めの大衆的解決と理解される危険性があるが、これは、それまでに綿々と綴って来た主人公の葛藤を有機的にする為には避けられない文学的要求なのである。予審判事ポルフィーリィと主人公との絡みは抜群に面白くミステリー作家に多大な影響(江戸川乱歩「心理試験」など)を与えているはずで、全体としてもこれほど後世の文学者や映画作家に影響を与えた小説はないと思う。
この記事へのコメント
“訳のわからないような作品が並んで当惑する”
私、そんな事言いましたっけ?
いやまぁ、常々思ってはいましたけどね (笑) 心を読まれてしまいました。
季刊ということは以前の半分のはずなのに量的に全然変わってませんやん?!!!
リーディングマシンですか?!!!
ジャレド ダイアモンド 「銃 病原菌 鉄」
高評価でホッとしました。 書かれている事が全て正しいかどうかは誰にもわかりませんが、ああいう仮説?は目から鱗的で面白いですよね。
笑われそうですが私なんてアメリカ大陸に元々は馬が生息していなかった(そもそも家畜になるような動物がいなかった)とは全然しりませんでした。
だって、西部劇ではインディアンがバンバン馬に乗ってましたもんね。
志水辰夫 「いまひとたびの」
私もいつか赤いバスに乗って帰りたいと思っていますが、果たして何処に帰りたいのかがよくわからないのです。循環バスで永遠にグルグル回ってたりして…
仏教では死んだ人の魂はもうこの世には帰ってこないらしいですね。彼岸、盂蘭盆に死者が帰ってくると言うのは仏教以前からある土着信仰が仏教とくっついたのだとか。 キリスト教でもクリスマスは冬至の頃だし復活祭は春分の日近くですし、やはりキリスト教が広まる以前の土着信仰と結びついていますよね。
>私、そんな事言いましたっけ?
それに近いことは仰っていました(笑)
文章自体は僕の言葉です^^
>ジャレド ダイアモンド 「銃 病原菌 鉄」
>高評価でホッとしました。 書かれている事が全て正しいかどうかは誰にもわかりませんが、ああいう仮説?は目から鱗的で面白いですよね。
実は、こういう文明・文化に関するものは好きなんですよ。
グレアム・ハンコックの「神々の指紋」なども読みましたもん。「神々の指紋」(あれはまあ読み物でしたね)よりこちらはぐっと説得力があります。
>志水辰夫 「いまひとたびの」
>仏教では死んだ人の魂はもうこの世には帰ってこないらしいですね。彼岸、盂蘭盆に死者が帰ってくると言うのは仏教以前からある土着信仰
そう、この類の催しは、ほぼ日本独自と言われていますね。
その代り、インドの仏教では、生命は輪廻転生するわけで、古代ギリシャの考えに近いですね。古代ギリシャのそれは、あるいはインドから持ち込まれたか?
「神々の指紋」 そういえばいっとき話題になりましたね。興味はあったのですが、とかく目まぐるしい世間の動向に流されてすっかり忘れてしまってました。
ジャレド・ダイアモンドはアカデミックな上から目線じゃなくて、一般peopleに向けて「こんな考え方もあるよ」とやさしい(優しい&易しい)語り口で書いてくれるので読みやすかった記憶があります。
確かこの本を書いたきっかけというのが、ポリネシア系だったかニューギニア系だったか(一緒か?)の人からある日、「自分達の社会は欧米に比べて文明の発達が遅れているのは自分達の民族が劣っているからでしょうか?」(大意) と尋ねられたからだと書いてありましたね。 いや、そうじゃないだろう、もっと地理的要因etcがあるはずだと言う訳で本書のような考察に至る訳で、何だか凄く優しいなぁと思いました。
こういうアプローチはダイアモンド独自なものではなくて他の学者もしていると思いますが、中々普通に読みやすく面白い本には出会えないですね。
>ポリネシア系だったかニューギニア系だったか(一緒か?)の人からある日
ニューギニアだったと思いますが、流れはそういうことでしたね。
>こういうアプローチはダイアモンド独自なものではなくて他の学者もしていると思いますが、
>中々普通に読みやすく面白い本には出会えないですね。
大陸の拡がり方という観点は面白いし、生命が生きられる温度範囲を考えると説得力があるので、他にも似た考えをする人は、少なからずいると思いますね。
非常に読みやすく、長い割にはあっという間に読んでしまいました。
☆ フォード・マドックス・フォード
この山本山の様なお名前に若干の既視感があったので調べたところ、以前に観たBBC製作の5話からなるドラマ「パレイズ エンド」の作者でした。
この”パレイズエンド”と言うのが フォースターの「ハワーズエンド」と同じように英国によくある地名○○endだと思って観ていましたがいっこうにそんな地名は出てこなくて…
最終回で第一次世界大戦が終わって主人公は帰還できたのですが、帰還兵士達が最後に集合して上官から「パレードは終わりだ」と号令をかけられるシーンがあって、「あぁ、そういう意味でしたか〜」となったのを思い出しました。
「ハワーズエンド」とどちらが先に書かれたのかまで調べていませんが、こちらが後だとしたら面白いですね。
>☆ フォード・マドックス・フォード
>この山本山の様なお名前に若干の既視感があったので調べたところ、
>以前に観たBBC製作の5話からなるドラマ「パレイズ エンド」の作者でした。
こういうネタは面白いですネ^^v
>「パレードは終わりだ」と号令をかけられるシーンがあって、
>「あぁ、そういう意味でしたか〜」となったのを思い出しました。
片方が名詞で、片方が動詞。
こういうことは英語ではあって面白いデス。
>「ハワーズエンド」とどちらが先に書かれたのかまで調べていませんが、こちらが後だとしたら面白いですね。
フォードの方が年上ですが、「ハワーズ・エンド」が1910年、「パレイズ・エンド(最終的にはノー・モア・パレーズになったよう)」は1925年発表ですので、モカさんのご期待どおりです!
古典ときどき現代文学:読書録2024年春号として、カズオ・イシグロの「浮世の画家」の感想を書かれていますので、コメントしたいと思います。
この「浮世の画家」は、「日の名残り」のような「信頼できない語り手」による物語になっていますね。
しかし、「日の名残り」よりも、こちらの方があからさまですね。
「日の名残り」と同じように、語り手が、かつてのことを回想しながら物語は進んでいき、もちろん、その言葉をそのまま額面通りに受けとめることもできるのですが、もっとさりげなかった「日の名残り」に比べて、この作品では、どうしても物事を自分に都合の良いように解釈し、記憶を改竄し、さりげなく、自分の行動を正当化していこうとする部分が目につきます。
周囲の人々との記憶の齟齬も読みどころになっていますね。
読んでいる途中で、この小野益次という人物は、痴呆症が入ってきているのかという疑いも持ったのですが、どうやらそうではないようですね。
この思い込みは、相当に強そうです。
何度も繰り返し、自分の社会的地位を十分に自覚したことなどない、自分は家柄など重視しないというように語るのですが、それが逆に、小野の自負心を浮き彫りにしているようです。
娘の紀子が破談されたのは、相手の家との格の違いだと繰り返し語られますが、その本当の理由が、小野の戦時中の行動にあることは明らかです。
そして、その事件が、予想以上に小野を傷つけていることもよく分かります。
戦時中の小野は、確かに自分の行動に信念を持っていたのでしょうけれど、今はそれを正当化することでしか、生きながらえていくことができなくなっているのです。
そういった一人の男の悲哀が、よく表現されているように思います。
この物語が、もし彼の身近な人間、彼の行動をつぶさに見てきた人間の視点から語られたら、どれほど違うのでしょうね。
全く違う物語になってしまいそうです。そして、それを読んでみたくなりますね。
>「日の名残り」のような「信頼できない語り手」による物語になっていますね。
自分が時代の敗残者であることを認めつつ、自己肯定もせざるを得ないのは、やはり人間は弱い生き物であるということなんだろうと思います。
>この物語が、もし彼の身近な人間、彼の行動をつぶさに見てきた人間の視点から語られたら、どれほど違うのでしょうね。
映画では、そうした手法で語られたり、あるいは二本に分けて作られたりと試みる作品群が幾つかありますね。「藪の中」形式を別にすると、小説ではありますかね?
☆ 阿部謹也 「ハーメルンの笛吹き男」
割と最近読みました。
通りいっぺんの歴史の授業では触れられないような中世ヨーロッパの裏歴史に踏 み込んでいて面白かったです。お勧めです。
☆イーディス・ウォートン
なんか聞いたことある気がするので調べてみたら(記憶喪失がゆるゆると進行して いるというか初めから物をおぼえる気がないと言うか…)
「ローマ熱」という一番有名らしい短篇を読んでいました。
これが入っている「20世紀アメリカ短篇選 上」(岩波文庫) を持っていたので 昨日サラッと読み返してみました。(色々チャチャを入れた手前、私も頑張って おります)
感想は…面白いっちゃ面白いけど、毒というほどの毒もなく有閑マダムの恋の 鞘当てみたいな…今の言葉で言うと「マウントの取り合いの話」で お好きにど うぞやってて下さいって感じですかね。
でもこの岩波文庫はレアな短篇が色々入っているので一読の価値はあると思 います。
P.S.
mirageさんへの返信で書いておられた「複数の語り手」問題ですが(笑)、最近のミステリー系は国を問わずにそう言うのが多いですね。
私はほとんど国産ミステリーは読みませんが、そうらしいです。
ちなみに今図書館に予約を入れているのもそっち系です。
タイトルは「死刑執行のノート」by ダニヤ・クカフカ
恐ろしいタイトルですが、面白かったらまたご報告致します。
有吉佐和子の「悪女について」
いわゆるミステリーではないけれど面白かったです。軽く読めるので、古典の 合間の箸休めにでもどうぞ。
>☆ 阿部謹也 「ハーメルンの笛吹き男」
>中世ヨーロッパの裏歴史
面白そうですね。図書館にありました。
>「20世紀アメリカ短篇選 上」(岩波文庫)
うーん、図書館になしTT
なければ買えよってか(笑)
>「複数の語り手」問題ですが(笑)、最近のミステリー系は国を問わずにそう言うのが多いですね。
そう言えば、映画にもなった湊かなえ「告白」もそれに近いですかね。
>有吉佐和子の「悪女について」
有吉先生、大人気です。
二つある蔵書は両方とも借りられていました。
☆ 有吉佐和子
このところ生誕○○年、没後○○年とかで復刻版が出たりして人気が再燃しているようで喜ばしい事です。
私もまだまだ読みたい物があるので少しづつですが追っかけたいと思っています。
☆アガサ クリスティー 「スタイルズ荘の怪事件」
おっしゃる通りポワロ初登場にして、クリスティーの記念すべきデビュー作でもありますね。 出版社数社に送るものの「残念ですが…」と返送されて、本人もその間に結婚したりしてすっかり忘れていた頃にある出版社からOKの連絡が来、本人もびっくりしたとか。
最近ポワロ最後の事件を扱った「カーテン」を読みました。
これの舞台がスタイルズ荘なんですが、これはいいです! でもポワロものを10冊くらいほ読んでからにしてくださいね。 私も15冊くらい読んでから勇気を出して読みました。
早川の文庫の後書きの指摘の鋭さにびっくりして「クリスティー、凄いな!」と感心しました。 「オリエント急行」なんてこれに比べたら子供騙しみたいなもんですね。最近読み直して、読み物としてはあれはあんまり面白くないとおもいました。
映画向きだったんですね。 プロットを完成させる為に超特急で書いてるから登場人物の書き分けをしていなくて、映画のほうが個性豊かな俳優陣の顔が見られるだけ面白いですね。 因みに私はアルバートフィニーは大好きなんですがデヴィッドスーシェのドラマ版の方が作品としては好きです。
そうそう、一番最初にポワロを演じたのは誰か知ってました?
舞台ですがチャールズ ロートン ですって!
チャールズ ロートンといえばアルバート フィニーの師匠にあたる方で,そう思ってみると芸風が似ていますよ。 アルバートフィニーはオリエント急行の時、きっとロートン先生ならどう演じたかな?と考えたんじゃないかなぁ〜
好きな2人がポワロで繋がっててなんだか嬉しいです。
>最近ポワロ最後の事件を扱った「カーテン」を読みました。
>でもポワロものを10冊くらいほ読んでからにしてくださいね。
数えてみたら7作読んでいました。
そのうち6作は10代のガキの頃。だから、「アクロイド」や「オリエント急行」といった本格推理ファンの一部からアンフェアと言われた作品のほうが、「スタイルズ荘」などより気に入ったのでしょう。
結果的に「オリエント急行」以降、「三幕の悲劇」「大空の死(雲をつかむ死)」「ABC殺人事件」「メソポタミアの殺人」という1930年代半ばに書かれたポワロものを連続して(買って)読んでしましたよ。
このうち「三幕の悲劇」「大空の死」がどこかへ消えてしまった。
これらをもう一度読んで、さらに15作まで読めれば「カーテン」を読む資格を得られるでしょうか(笑)
>一番最初にポワロを演じたのは誰か知ってました?
>舞台ですがチャールズ ロートン ですって!
そうでしたか。
体形はピーター・ユスティノフが近いですけど(笑)
アルバート・フィニーとの関係も、勉強不足で知りませんでした。
漫画のサザエさん家やクレヨンしんちゃん家は何十年経っても全員歳をとりませんが、ポワロやヘイスティングズは歳をとっていくので最後の事件ということはポワロシリーズの最終回なのです。あまり書くと余計な情報を出してしまいそうなので多くは語れませんが、やっぱり最終回は特別だと言うことでご容赦下さい。
30年くらい前ですがお年寄りの集う施設を新設するので本の寄付を募っておられるのを知って、クイーンやヴァンダインや藤沢周平とかを送った記憶がありまして。
クリスティーも少し混じってたかもしれません。本も時々雲隠れしますね。
(我が家には何故か「マルドロールの歌」が2冊もあるのですが寄付向きの本じゃありませんしね…寄付もいざとなると難しいもんです。)
まぁどっちにしろ昔の文庫は活字も小さくインクも薄くなっているし何より翻訳が古くさいです。
50年ほど前の堀田善衛訳の「ABC殺人事件」が出てきたのでパラパラ読んでみたら、殺人予告の手紙の末文に「しからばごめん」ってあったのには大笑いでした。
当時は気にならなかったのかな…?
でもハヤカワも創元社もブックデザインは素晴らしかったです。
岩波文庫が図書館にありませんでしたか… Umm
今はどうなっているのか知りませんが、本というのは殆どの出版社が書店に対して委託販売方式なので返品可能なのですが、岩波は買取り方式でしたね。だから大型店にはあっても小さい書店はあえて置きたくないケースが多かったですね。
そういうちょっと変わった会社だから図書館にも営業に行ってなかったかもしれませんね。
>最終回は特別
は~い。よって、暫く残しておきますよ。
最終回と言えば、僕が見る数少ないTV番組の一つ「ブラタモリ」の最終かいを見落としました。再放送、やってくれー(笑)
>本も時々雲隠れしますね。
クイーンのドルリー・レーン・シリーズや、ヴァン・ダインもなくなりました。図書館で大体読めますが。
>本の寄付
殊勝なことです^^
>堀田善衛訳の「ABC殺人事件」
僕の持っているのもそれですよ!
創元推理文庫やハヤカワ文庫は登場人物名が整理されているので便利ですね。純文学ではこの手は殆どないので、登場人物の多い小説では苦労することがあります。
この間の「罪と罰」も、当時のロシアでは父称(例えば、ペトローヴィッチ=男性の場合、ペトローヴナ=女性の場合、これで父親の名前がピョートルということが解ります。これは苗字と思っている人がいますが、ロシアの苗字にヴィッチはありません)を付けて呼ぶことが多い(父称をつけて呼ぶのは丁寧な呼びかけ)ので、長くてなかなか憶え切れないですからね。ロシア語を専門とする僕でさえそうなのですから、一般の文学好きはもっと苦労することでしょう。
☆ ブラタモリ
もう6〜7年くらい前の放送ですが奈良の活断層の回なんてお忘れでしょうね…
活断層の上に宮大工が作った寺院建築の基督教会と幼稚園にタモリが訪ねて行くのですが、そこが私の通っていた幼稚園と教会なんですよ。
裏側が興福寺と隣接している為、洋風建築はそぐわないとの事で建てられた珍しい教会で最近国の重要文化財に指定されたそうです。
裏門から時々鹿さんが入ってきたり、ブランコで1番高い所まで漕いだら塀のすぐ外にある興福寺の三重の塔が見えたりした、今思えばかなり珍しい幼稚園でした。
>奈良の活断層の回なんてお忘れでしょうね…
全く憶えておりません^^;
>そこが私の通っていた幼稚園と教会なんですよ。
あれっ、モカさんは奈良出身でしたっけ!
>興福寺
今は昔、高校の修学旅行で最初に行ったところではなかったかな?
そうなんですよ。 私の「奈良時代」は昭和なのでした。
興福寺は国宝所有数では日本1のお寺じゃないかな…多分…
ここの仏像は本当に素晴らしいです! 何度見ても見飽きることがないですね。
度重なる戦火の中をあれだけの物が残ったなんて奇跡のようにも思えます。
友達によると戦火の中を仏様を担ぎ出して(木像なので割と軽かったらしいです)境内の猿沢の池に投げ込んだとか… 見たかの様に語っておりましたが ^_^
無邪気だったモカちゃんが鯉や亀さんに餌をやって遊んでいた猿沢の池畔ですが、清盛の南都焼き討ちの際には捕らえられた平家側の兵の首が何十も並べられたとか(by 平家物語) 怖いなぁ… でもねそんな事言うてたら奈良や京都には住めませんわ。
調べ出したら血生臭い話がゾロゾロ出てきます。
>興福寺
>ここの仏像は本当に素晴らしいです! 何度見ても見飽きることがないですね。
亀井勝一郎「大和古寺風物誌」に興福寺は出て来なかったようですが、奈良の仏像と言えば、この本を思い出しますねえ。
読んでいるうちに懐かしい気持ちになりました。
>度重なる戦火の中をあれだけの物が残ったなんて奇跡
文化を大事にする僕としては、本当に感慨を覚えます。
イスラム教徒やキリスト教徒は、偶像崇拝を禁止した歴史(原理主義者は今でも)があり、随分壊してきましたよねえ。タリバンがバーミヤンの石仏を破壊した時腹が立ってまらなかった。イラクでもね。
日本でも明治初め神仏分離令が発端になって、廃仏毀釈でお寺に結構被害があり、そこから文化財保護という観念が生れましたよね。
>平家側の兵の首
日本人に限らず、昔の人は首を切ることに現在人ほど抵抗がなかったようですね。やたらに首を切ります。
信長が生きていた時代に書かれた「信長公記」に、首帳(討ち取った首の記録簿)について記されていましたよ。