映画評「アイ・アム まきもと」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2022年日本映画 監督・水田伸生
ネタバレあり

阿部サダヲが地面に寝転がって空を見ているので、“こりゃ「おみおくりの作法」かいな?”と思い始め、彼が市役所おみおくり課の役人と判った段階でリメイクと確信した。

孤独死をした人々の葬儀を自費で行い、その葬儀も、警察が嫌がるのを無視して葬式に参加する血縁者が出るぎりぎりまで、葬儀の後も引き取り手が出るのを待って遺骨を溜め込む。掃除のおばさんがそれを嫌がる。

このおばさんとの関係を始め、阿部サダヲが役人を演じていることから想像できるように、「おみおくりの作法」と違ってぐっと喜劇的である。そもそも「おみおくりの作法」は社会派映画的な人情ものではあって狭義の大衆映画ではなかった。
 その後のストーリーは、人物関係に多少の差異があるものの、大体オリジナルに沿っている。

最後の孤独死者(宇崎竜童)の持ち物から、娘と思われる10歳くらいの少女と映っている写真を発見し、懸命にそこに行き着くべく彼が関係した会社などを歴訪し、やがて彼の愛人だった女性・宮沢りえを発見する。彼女との間の娘は20歳になってい、子供を産んでいる。
 彼女が経営する食堂の客を通じて現在は30歳を少し超えた写真の少女(だった女性)満島ひかりを探し当て、彼女を中心に葬儀をすることを叶える。
 が、その段取りを全てした当の阿部氏は交通事故で帰らぬ人となる。宇崎の葬儀の横で阿部の葬儀が行われ、彼の墓の前に彼が世話した孤独死者の霊が次々と集って来る。

「おみおくりの作法」ではじーんとしたこのラスト・シーンが少し浮く。何故ならあの映画ではそのファンタジー場面が“神の主観ショット”であるということが、それまでの映画言語の扱い(主観ショットの完全なる排除)によって僕には明確に理解できたのに対し、本作はそうした映画言語の工夫がない若しくは少ないからである。

反面、孤独死については甲乙つけがたい思いを抱かせる。主人公の孤独者への思いにはさすがにじーんとする。死んだ後をきちんとするのは宗教に関係なく必要なことであろう。死んだ後は他人の知った事ではないという役所の局長のスタンスは人間として許しがたい気がする。

阿部サダヲ故に成立したような、行為が先行し思惟が追いつかないという性格設計が頗るユーモラスで、死に関する厳粛なお話のアクセントとなっている。
 死を笑いにするということに反感を覚える人もかなりいるだろうが、アメリカ黒人の葬儀にはよく「聖者の行進」が楽しそうに演奏される。必ずしも死の厳粛=謹厳ということではないだろう。

元日に会った甥の新妻が好きな日本映画は「おくりびと」と言っていた。彼女は日本人でないので、日本的なものに惹かれるようで、「名探偵コナン」で官憲が靴を脱いで部屋に入るのが興味深く、日本に傾倒したそうだ。

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