映画評「近江商人、走る!」

☆☆(4点/10点満点中)
2022年日本映画 監督・三野龍一
ネタバレあり

経済的な側面から江戸時代を捉えた作品にはなかなか興味深いものが多いので観てみたが。これは僕の映画観からは認めがたい作品である.。梗概の後、その辺りを映画論的に簡単に論じる。

母親を早くに失い父親と一緒に畑仕事をしていた少年・銀次が父親の死を受け、よくして貰った薬行商の男から米問屋の大善屋(筧利夫)を頼るように言われ、その丁稚になる。
 数年後、大善屋は商売敵だが丁稚にしている息子蔵之介(森永悠希)がいる関係で柏屋の連帯保証人となるが、これが悪徳奉行と示し合わせた詐欺で、柏屋が逐電した(実は近所にいる)為1000両もの借金を背負うことになる。
 これを優秀な丁稚になっていた銀次(植村侑)が知恵を絞り、米を安い取引所で買って高い取引所で売るという手法を思い付く。距離のある連絡手段は知り合いになった眼鏡屋に望遠鏡を作って貰い、手旗信号を繋いでいくという連絡網を構築する。蔵之介が父と大善屋の間に入っていることで少々困った事態に発展しかけるが、ここを乗り越える。
 が、これも奉行は計算のうちで、不正取引の訴えありと目泰箱を悪用して大善屋以下を捕縛する。さあ、その後如何なることになるでしょうか。

というお話自体は、今世紀に入って幾つか作られた経済時代劇に著しく劣るわけではない。

まずいのは、茶屋女の番付争いをめぐってミニスカート風の衣装が出て来たり、L・O・V・E・L・Yと叫ぶ応援風景であったり、首尾よく行った時に放たれる“イェー、イェー、イェー”といった表現である。
 現在の人々が時代劇を観るのだから、その時代劇には現在が透けて見えなければならないのは確かである。あるいはその時代の風俗に100%忠実である必要はなく、(映画のタイプにもよるが)既婚女性の鉄漿(おはぐろ)や眉剃りなどは寧ろ避けた方が良いくらいだが、ムードを損なう現代化は避けるべきである。
 江戸時代は番付が隆盛したので、茶屋女の番付合戦も面白いアイデアだが、それを現在のアイドルよろしく扱うのが行き過ぎで、これでこの映画作者の(狙いの)程度が解ってしまって、ひどく幻滅した。

現在の人々が観るのだから現在の口語調で語られるのも全く問題なしだが、短期間で普及した言葉遣いや外来語は避けなければならない。これくらいムードを損なうものはない。

飛脚以外の通信手段がない時代だから、高台をこしらえて望遠鏡を使い、連絡するというアイデアは悪くない。大工や眼鏡屋を出して来た意味も出て来る。本来庶民が官僚の不正を訴える為に使われた目安箱が、密告に使われるのもどうかと思うが、これは歴史研究家ではないのでさほど問題とはしない。

最後はデウス・エクス・マキナだが、こういうのもまあよろし。しかし、行き過ぎた現在的描写がある為に映画に対して信用ができない気分が生れ、その結果江戸時代の近江商人について勉強できたとは到底思えないのは勿体ない。

「近江商人が走るイェー!イェー!イェー!」(「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」のもじり)

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