映画評「小さき麦の花」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2022年中国映画 監督リー・ルイジュン
ネタバレあり
昨年思いがけず中国少数民族の一家が我が姻族になった。
その出身地より北西部にある乾燥地帯が舞台。
農家の中年次男坊ヨワティエ(ウー・レンリン)が独りぼっちになり、義兄らの媒酌により、パーキンソン病で尿失禁をするので疎まれている内気な女性クイイン(ハイ・チン)と結婚する。その家でロバに優しくしているヨワティエが気に入った彼女はすぐに彼と信頼し合う夫婦になる。
現在の家が農村政策により壊されて追い出される為、麦やトウモロコシ作りの傍ら、自ら天日干しの煉瓦を作って自ら家を建てる。まるで「野のユリ」(1963年)だ。
収穫もなかなか順調に行き、夫婦愛は成長していくが、足の悪いクイインが堀に落ちて帰らぬ人となる。絶望したヨワティエは生産物を全て売り、ロバを解放して、国家の政策に従って市の中心部にあるビルに移る。
妻を思い出させる麦の花を持って横たわるヨワティエは死んだかと思ったが、ラスト・シーンのでBMWに乗る地主息子の “これから新生活か!” という台詞を考えるとどうもそうではないらしい。
全体的には、質素な生活に満足して相手に過大な要求をしない夫婦の互いへの愛情と信頼が身に沁みる。歳を取って来ると、お金より何よりもこうした人間関係や生活が羨ましくなってくる。
働き者の夫がただ一回だけ妻を叱る場面がある。妻が収穫した麦の塊をロバ車に乗せられない力の無さに思わず腹が立ったのである。この時カメラの位置が変わって、遠方に見事に麦を台車に載せている女性の姿を見せる。この辺り映画言語的に効果的に場面を構成するリー・ルイジュンという監督の腕の確かさに大いに感心させられた。単なる夫婦愛の映画に終わらせていない。
ロベール・ブレッソンの傑作「バルタザールどこへ行く」(1966年)を思い出させるロバは最後に解放されて主人が去った後一度振り返る。これを見ると、ロバに親切にしたところが大いに気に入り “ロバのほうが自分より幸せだ” と思ったクイインをロバが象徴しているように思われる。クイインがロバに憑依したと言った方が東洋的で良いかもしれない。
ラスト・シーンで一見唐突にロバが現れ、壊されるかつての夫婦の家を見る。これを考えるとヨワティエが死んだと考えたほうが映画言語上の整合性が取れるのだが、クイインがロバの目で見ていると思ってもあながち間違いではないだろう。
二人で黙々と働く様子は新藤兼人監督「裸の島」(1960年)、貧しい農村風景はエルマンノ・オルミ監督「木靴の樹」(1978年)を想起させる。室内の叙景に後者の近世絵画のような印象に重なるショットもある。
中国でも大ヒットしたそうだが、その後上映と配信が禁止になったそうだ。政策批判と理解されたか。自信があれば、無視すればよいだけなのだが。
2022年中国映画 監督リー・ルイジュン
ネタバレあり
昨年思いがけず中国少数民族の一家が我が姻族になった。
その出身地より北西部にある乾燥地帯が舞台。
農家の中年次男坊ヨワティエ(ウー・レンリン)が独りぼっちになり、義兄らの媒酌により、パーキンソン病で尿失禁をするので疎まれている内気な女性クイイン(ハイ・チン)と結婚する。その家でロバに優しくしているヨワティエが気に入った彼女はすぐに彼と信頼し合う夫婦になる。
現在の家が農村政策により壊されて追い出される為、麦やトウモロコシ作りの傍ら、自ら天日干しの煉瓦を作って自ら家を建てる。まるで「野のユリ」(1963年)だ。
収穫もなかなか順調に行き、夫婦愛は成長していくが、足の悪いクイインが堀に落ちて帰らぬ人となる。絶望したヨワティエは生産物を全て売り、ロバを解放して、国家の政策に従って市の中心部にあるビルに移る。
妻を思い出させる麦の花を持って横たわるヨワティエは死んだかと思ったが、ラスト・シーンのでBMWに乗る地主息子の “これから新生活か!” という台詞を考えるとどうもそうではないらしい。
全体的には、質素な生活に満足して相手に過大な要求をしない夫婦の互いへの愛情と信頼が身に沁みる。歳を取って来ると、お金より何よりもこうした人間関係や生活が羨ましくなってくる。
働き者の夫がただ一回だけ妻を叱る場面がある。妻が収穫した麦の塊をロバ車に乗せられない力の無さに思わず腹が立ったのである。この時カメラの位置が変わって、遠方に見事に麦を台車に載せている女性の姿を見せる。この辺り映画言語的に効果的に場面を構成するリー・ルイジュンという監督の腕の確かさに大いに感心させられた。単なる夫婦愛の映画に終わらせていない。
ロベール・ブレッソンの傑作「バルタザールどこへ行く」(1966年)を思い出させるロバは最後に解放されて主人が去った後一度振り返る。これを見ると、ロバに親切にしたところが大いに気に入り “ロバのほうが自分より幸せだ” と思ったクイインをロバが象徴しているように思われる。クイインがロバに憑依したと言った方が東洋的で良いかもしれない。
ラスト・シーンで一見唐突にロバが現れ、壊されるかつての夫婦の家を見る。これを考えるとヨワティエが死んだと考えたほうが映画言語上の整合性が取れるのだが、クイインがロバの目で見ていると思ってもあながち間違いではないだろう。
二人で黙々と働く様子は新藤兼人監督「裸の島」(1960年)、貧しい農村風景はエルマンノ・オルミ監督「木靴の樹」(1978年)を想起させる。室内の叙景に後者の近世絵画のような印象に重なるショットもある。
中国でも大ヒットしたそうだが、その後上映と配信が禁止になったそうだ。政策批判と理解されたか。自信があれば、無視すればよいだけなのだが。
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