映画評「ナイル殺人事件」(2020年版)
☆☆★(5点/10点満点中)
2020年アメリカ=イギリス合作映画 監督ケネス・ブラナー
ネタバレあり
ケネス・ブラナー主演・監督によるアガサ・クリスティ・シリーズ第2弾だが、ポリ・コレ的配慮が露骨になった分だけ、脚本がめちゃくちゃになって駄作と言っても良い出来栄え。僕はこう見えても人が良いので、大作感に銘じて☆☆★を進呈するが、これに時間を費やすくらいなら、1978年のジョン・ギラーミン版を観るべし。
ナイルの旅が始まってからは大体78年版と同じ流れであるが、その前のポワロ(ブラナー)が髭を生やすようになった理由が綴られるそれなりに長い一幕があり、ここでまず意気消沈。ポワロの人となりは本編の中で自ずと現れるようにすれば良い。こんなおためごかしのような性格造形を導くエピソードを加えているのに、上映時間は127分と78年版より13分も短い。
つまり、推理場面に手を抜いているのであり、実際、ポワロがかき回した挙句の大団円は前回の「オリエント急行殺人事件」同様あっさりしている。ひどいというレベルでもないが、泉下のクリスティ女史もクリスティ(苦しい)と言っているだろう。
前回同様サスペンスへの傾倒が目立ち、ポワロが少々危険な目に遭う。現在的改変と言うべきなのだろうか。結果的に大いにつまらなくなった。
問題はポワロではなく、その従弟ポリコレである。前回では黒人医師を追加しただけだが、今回は黒人歌手(ソフィー・オコネドー)とその娘(レティーシャ・ライト)を加え、弁護士(管財人)も有色人種である。
ここまではそういう人種という設定だからまだ良いが、被害者の一人の大富豪美人リネット(ガル・ガドット)の従兄(アリ・ファザール)が何故かインド/パキスタン系となっている。ここで彼は印パ系が演じている白人なのか、それとも彼が印パ系と白人とのハーフという設定なのか不明、という問題が生じる(ガル・ガドットはユダヤ系なので、アーリア系から見れば白人ではないのかもしれないが)。
「シックス・センス」の登場により十年間くらいに渡りサスペンス映画の画面が信じられない時代があったが、何年か前から有色人種が演じる白人という配役の映画が時代劇に出現し、現在は英米メジャーが作る時代劇の画面が信じられない時代に入っている(不幸にも映画は、演劇・芝居と違って、見た目通りに観客は解釈する。黒人が白人役をやっても、過去のことなど知らない多数の観客は黒人と理解する)。映画ファン受難の時代である(そう思わず多様化などと言って歓迎する、映画について真面目に考えていない人権意識が映画意識より高い自称映画ファンも結構多いが)。
上映開始後1時間44分の時点で従兄は“この肌の色で拳銃を持っていたら警官に殺されてしまう”という言葉を放つので、ハーフということが判明する。この映画はとりあえず見た目通りに理解すれば良いと確定したが、僕はそれまで90分くらいモヤモヤしていたのである。
どちらにしても、時代劇に就業機会の均等の狙いでやたらに有色人種を出すのは歴史改竄に繋がる。Allcinemaの投稿にあるように、戦前の(オリエント急行やナイル豪華客船)一等客室に客として有色人種が入れるわけがないのである。人気歌手かどうかなど関係ない。丁度この映画の時代にブルースの大歌手ベッシー・スミスが交通事故で死んだのは白人専門の病院が受け入れなかったからである。
"黒人の扱いが甘い" と「風と共に去りぬ」を歴史改竄容疑者にした同じ側の人人がもっと悪質な歴史改竄をしている。僕が問題としているのは、それを知らない相対的多数の観客がそれを事実のように受け取ってしまわないかということである。「風と共に去りぬ」は単に扱いが甘い(と彼らが見ている)だけの話なのに比べて随分ひどいでないか。
アカデミー賞受賞規定の改定の時に“そのうち「ブレイブハート」のような中世時代劇に黒人が戦士として出て来るだろう”と言った僕の予言は現実化したのである(というより、厳密にはその前から既に始まっていた)。それはネトウヨのデマだと通りがかりの左派の人に言われたが、僕は購読しているリベラルの一番手・東京新聞の記事からそう推測したに過ぎない。東京新聞はネトウヨか?
世界終末時計が1分30秒前と言われているが、僕の映画終末時計も30分くらい前。後5年ポリコレ(特に歴史改竄)映画が闊歩するのであれば、僕は洋画の新作を金輪際観ないと決めている。メジャー映画よ、早く改心しておくれ。
2020年アメリカ=イギリス合作映画 監督ケネス・ブラナー
ネタバレあり
ケネス・ブラナー主演・監督によるアガサ・クリスティ・シリーズ第2弾だが、ポリ・コレ的配慮が露骨になった分だけ、脚本がめちゃくちゃになって駄作と言っても良い出来栄え。僕はこう見えても人が良いので、大作感に銘じて☆☆★を進呈するが、これに時間を費やすくらいなら、1978年のジョン・ギラーミン版を観るべし。
ナイルの旅が始まってからは大体78年版と同じ流れであるが、その前のポワロ(ブラナー)が髭を生やすようになった理由が綴られるそれなりに長い一幕があり、ここでまず意気消沈。ポワロの人となりは本編の中で自ずと現れるようにすれば良い。こんなおためごかしのような性格造形を導くエピソードを加えているのに、上映時間は127分と78年版より13分も短い。
つまり、推理場面に手を抜いているのであり、実際、ポワロがかき回した挙句の大団円は前回の「オリエント急行殺人事件」同様あっさりしている。ひどいというレベルでもないが、泉下のクリスティ女史もクリスティ(苦しい)と言っているだろう。
前回同様サスペンスへの傾倒が目立ち、ポワロが少々危険な目に遭う。現在的改変と言うべきなのだろうか。結果的に大いにつまらなくなった。
問題はポワロではなく、その従弟ポリコレである。前回では黒人医師を追加しただけだが、今回は黒人歌手(ソフィー・オコネドー)とその娘(レティーシャ・ライト)を加え、弁護士(管財人)も有色人種である。
ここまではそういう人種という設定だからまだ良いが、被害者の一人の大富豪美人リネット(ガル・ガドット)の従兄(アリ・ファザール)が何故かインド/パキスタン系となっている。ここで彼は印パ系が演じている白人なのか、それとも彼が印パ系と白人とのハーフという設定なのか不明、という問題が生じる(ガル・ガドットはユダヤ系なので、アーリア系から見れば白人ではないのかもしれないが)。
「シックス・センス」の登場により十年間くらいに渡りサスペンス映画の画面が信じられない時代があったが、何年か前から有色人種が演じる白人という配役の映画が時代劇に出現し、現在は英米メジャーが作る時代劇の画面が信じられない時代に入っている(不幸にも映画は、演劇・芝居と違って、見た目通りに観客は解釈する。黒人が白人役をやっても、過去のことなど知らない多数の観客は黒人と理解する)。映画ファン受難の時代である(そう思わず多様化などと言って歓迎する、映画について真面目に考えていない人権意識が映画意識より高い自称映画ファンも結構多いが)。
上映開始後1時間44分の時点で従兄は“この肌の色で拳銃を持っていたら警官に殺されてしまう”という言葉を放つので、ハーフということが判明する。この映画はとりあえず見た目通りに理解すれば良いと確定したが、僕はそれまで90分くらいモヤモヤしていたのである。
どちらにしても、時代劇に就業機会の均等の狙いでやたらに有色人種を出すのは歴史改竄に繋がる。Allcinemaの投稿にあるように、戦前の(オリエント急行やナイル豪華客船)一等客室に客として有色人種が入れるわけがないのである。人気歌手かどうかなど関係ない。丁度この映画の時代にブルースの大歌手ベッシー・スミスが交通事故で死んだのは白人専門の病院が受け入れなかったからである。
"黒人の扱いが甘い" と「風と共に去りぬ」を歴史改竄容疑者にした同じ側の人人がもっと悪質な歴史改竄をしている。僕が問題としているのは、それを知らない相対的多数の観客がそれを事実のように受け取ってしまわないかということである。「風と共に去りぬ」は単に扱いが甘い(と彼らが見ている)だけの話なのに比べて随分ひどいでないか。
アカデミー賞受賞規定の改定の時に“そのうち「ブレイブハート」のような中世時代劇に黒人が戦士として出て来るだろう”と言った僕の予言は現実化したのである(というより、厳密にはその前から既に始まっていた)。それはネトウヨのデマだと通りがかりの左派の人に言われたが、僕は購読しているリベラルの一番手・東京新聞の記事からそう推測したに過ぎない。東京新聞はネトウヨか?
世界終末時計が1分30秒前と言われているが、僕の映画終末時計も30分くらい前。後5年ポリコレ(特に歴史改竄)映画が闊歩するのであれば、僕は洋画の新作を金輪際観ないと決めている。メジャー映画よ、早く改心しておくれ。
この記事へのコメント
オカピー先生のご忠告を待つまでもなくブラナーのオリエント急行も本作も見る気も起こりません。 先生、本当に人が良いんですね。
3作目は「ハロウィーンパーティー」をネタにしていてもう公開されてましたか?
これは昔読みましたがイギリスの田舎町が舞台のお話なのに、ブラナー君は舞台をベネツィアに変えちゃったらしい。ウケ狙いですな。
クリスティーの本の権利は確か今は孫息子が持っているのかな。
クリスティーの一人娘が存命中はもっと作品の品位を守ろうという気概があったのに… お金に目が眩んだんでしょうか? 本の印税だけでは満足出来ないんでしょうか。
テレビ版で長年ポワロを演じたデヴィッドスーシェの自伝「ポワロと私」を読みましたが、それによるとポワロを演じるにあたって存命中だった娘さんから厳格な注文をつけられてたそうです。
スーシェはポワロシリーズを読破してノートにポワロの人となりや特徴を書き出して、歩き方や服装といった外見からポワロの内面まで自分の中に取り込もうと努力したようです。
穿った見方かもしれませんが、ブラナーはアイルランド出身なのでイングランド的なものを壊したかったのかもしれませんね。デヴィッドスーシェやアルバートフィニーに喧嘩売ってるんしょうかね。多分そうじゃなくて金儲けの為だとはおもいますが… ディズニーですからね…
残念ながら先生や私の杞憂は杞憂ではないということですね。この状況はあと20〜30年は進行するでしょうね。この前みたYoutubeで岡田斗司夫もそんな事を言ってましたよ。
>3作目は「ハロウィーンパーティー」をネタにしていてもう公開されてましたか?
昨年9月に「名探偵ポワロ:ベネチアの亡霊」のタイトルで公開されたようでうね。もう3弾が出来ていたとは驚きました。映画のニュースに触れることも減りました。
>本の印税だけでは満足出来ないんでしょうか。
書物の著作権保護期間が死後70年になった時に考えたのですが、相続税をかけたら良いと思います。すれば、それほど売れていない作家の遺族は、権利放棄するかもしれません。そのほうが文化の為になります(多分)。
>ディズニーですからね
ディズニーは、ポリ・コレの最先鋒らしいですね。
アニメからして元々好きなじゃかったですが、益々嫌いになった(笑)
>残念ながら先生や私の杞憂は杞憂ではないということですね。
>この前みたYoutubeで岡田斗司夫もそんな事を言ってましたよ。
そうですか。
僕が文句を言うと、数年後に僕の言うとおりに変化してきましたけど、これはすぐには無理かいなTT
一昨年、賢いほうの甥(昨年末に外国人と結婚)と、映画論のやり取りをした時に岡田氏のYouTube番組を紹介されましたよ。結構有名人なんだな。
1978年ギラーミン版のほうが「ナイル殺人事件」ゆったり楽しめましたね。
アガサ・クリスティーのポアロものは、当時の英国の上流階級コスプレ劇で、だからこそ人が描ける(人形劇のようだともいわれますが、真実が見える)おもしろさがあるので、無理やり今風にするといいところが失われる気がします。
ソフィー・コッポラの「マリー・アントワネット」だと、映画自体が少女マンガ風で、中でちょろっと有色人種がエキストラとして混じってたりスニーカー履いてる人がいたりしたのも、少女マンガ的お遊びに見えて楽しかったし、デレク・ジャーマンの「テンペスト」は最初から異世界を作り上げていたのでこれはそういう作品なんだなと見ることができました。
ケネス・ブラナーのポアロは、ちょっとしんどいですね、観るのがね。ブラナーの役者としての魅力は伝わってくるのですが、テレビドラマ版「名探偵ポアロ」のほうが、原作ファンにとってはうれしいポアロになってます。
>1978年ギラーミン版のほうが「ナイル殺人事件」ゆったり楽しめましたね。
映画的には段違いですよ。
>アガサ・クリスティーのポアロものは、当時の英国の上流階級コスプレ劇
そう見えますねえ。
これが、ミス・マープルものとぐっと違うお楽しみ。
>無理やり今風にするといいところが失われる気がします。
時代劇に透かして今を見るのは寧ろあるべきですが、今そのものを導入するのは下手すぎる。
>ソフィー・コッポラの「マリー・アントワネット」
>デレク・ジャーマンの「テンペスト」
こういうインディやアート系や、観客のタイプも違い、観客もそこに透かして何かを見る。メジャー系はそれと同じには語れませんね。
>テレビドラマ版「名探偵ポアロ」のほうが、原作ファンにとってはうれしいポアロになってます。
「アクロイド殺人事件」だけ観ています。
最近またクリスティへの興味が復活してきましたよ!