映画評「ウーマン・トーキング 私たちの選択」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2022年アメリカ映画 監督サラ・ポーリー
ネタバレあり

映画監督としてのサラ・ポーリーには「アウェイ・フロム・ハー 君を想う」の演出ぶりに瞠目させられた。配給会社の人は当時「きみに読む物語」を意識してサブタイトルを加えたのではないかと思うが、ロマンス性の強いかの作品と違って、辛辣な男性批判の色彩が濃かった。本作には「アウェイ・フロム・ハー」と通底するものがある。

今世紀ボリビアで起きた実話を基にした、タイトル通りの台詞劇。

レイプなど男たちの暴力がはびこっている宗教コミュニティで、鬼即ち男たちのいない間の洗濯(選択)とばかりに、残された老若の女性たちが、村に残って何もしないか、村に残って男たちと闘うか、村を出ていくか、の三択を巡って討論を交わす。
 結局、唯一女性の立場を理解する、コミュニティ外帰りのインテリ青年ベン・ウィショーを記録係として、討議を進めるという体裁。

演ずるのは(主に北方系)白人ばかりだが、方向を辿る目印として南十字星の話題が出ること、登場人物の名前がラテン系っぽいということを考えると、舞台は実際に事件の起きたボリビアで、敢えて舞台を移しての翻案はしかなった模様。

いずれにしても、男女差別の寓話と考えれば、普遍性のある話であるから、どこを舞台にどの言語で演じられても全く問題なし。これを特殊なコミュニティで起こった特殊なことを思う鑑賞者は、この映画を選択したということを考えれば、殆どいまい。

サラ・ポーリーの展開ぶりはミニマリズムで人によっては説明不足を感じるかもしれないが、どちらかと言えば、登場人物の佇まいなど映画言語で観るべき映画だろう。
 ジェンダー平等の意識が高そうに見える監督としては、製作(製作発表はタリバン復権の少し前)を進めるうちに復権したタリバンによる女性抑圧も頭をもたげ、本作製作の意義を感じたのではあるまいか。

タリバンが復権したことにより、多くの女性たちが勉学の権利を失った。以前は就業もさせなかったが、夫に死なれて小さな子供しかいない家は現在どうしているのだろうか?
 この作品のコミュニティでも女性は、高級な会話とは裏腹に、誰も文字が読めない。タリバンらの原理主義男性は、女性が知恵を付けると自分達の独占している権力が脅かされるのを恐れているのかもしれないが、こうした考えがイスラムをして西洋から遅れを取る主因となったことに未だに気付いていない。実に愚かである。先日読んだ「銃・病原菌・鉄」で著者ジャレド・ダイヤモンドも、近世以降イスラムが欧州に遅れを取ったのは古いものに拘り過ぎたからではないか、と述べているが、全く同感である。

閑話休題。
 設定等に関する説明のミニマルさとは対照的に、台詞自体は少なくなく、舞台も納屋の2階に限られ、ややもすると演劇的に見える台詞劇なので、外見的な動きの激しさを求めるときっと退屈する。この手の作品では感情の動きを見つめなければならず、鑑賞者に洞察力を要求する。
 個人的に、女性たちが文字が読めないにしては使う単語が高級すぎる、という違和感あり。寓話なので、割り切って観るべきなのだろうが。

7%程度の極右議員の反対で遅々として進まぬ日本の選択制夫婦別姓も煩わしさが一切減り、経済効果は少なからずあるはずだ。通称は海外では通じず、困ることが多いとも聞く。当然別の問題が出てくるわけだが、外国人ができることが出来ないほど日本人は劣るのか。国粋主義の保守たちは、日本人の能力が劣ると言っているのも同然だ。極端な保守こそ彼らがよく使う反日であると思う(10年程前と記憶するが、原発を自然再生エネルギーに随時置き換えていくと、日本は数兆円レベルで毎年経済成長するとIMFが分析していた。IMFは政治的思想への配慮は最低限しかなく、興味の対象は経済の成長と安定だけだから、結構信用できる)。経済成長が目的とは言え、サウジアラビアの皇太子が女性の権利・自由を増やしているのは賢い。このまま拡大化することを願う。

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