映画評「山女」

☆☆★(5点/10点満点中)
2022年日本映画 監督・福永壮志
ネタバレあり

柳田國男「遠野物語」の挿話に着想を得て新鋭・福永壮志監督が作り上げた時代劇。

18世紀末に東北地方に起きた冷害(つまり天明の大飢饉)が背景で、その為に村中で赤子の間引きが起きている。その汚い処理をするのが、祖父の罪を負わされて田畑も奪われた永瀬正敏の一家である。
 ある時、盗まれた米が、永瀬一家の土地の中から発見されるという事件が起きる。娘の山田杏奈は自分がやったと嘘の自白をし、通り越すのが禁忌とされている祠を超えて山の中に入っていく。そこで山男として怖がられている森山未來と遭遇、口を利かない彼の面倒を見始める。
 村のシャーマン白川和子が乙女を神様に捧げよと村長に告げるが、応じる者がいない。そこへ何も知らない旅帰りの若者・二ノ宮隆太郎から、幼馴染の山田杏奈を探す為にマタギ衆を貸してくれと頼まれたことから、村長は、渡りに舟とマタギを貸す。多勢に無勢、山男の奮戦空しく、彼女は捕えられて結局人身御供となり、火あぶりの場に連れて行かれる。
 が、神様は自ら山女になった彼女の為に大量の雨を降らせ、磔の板を破壊し、彼女は命拾いをする。村人が畏怖して拝む中、彼女は村を去っていく。

というお話で、 ”何故今頃こんな昔の伝説的な物語を” という疑問を映画サイトで読んだが、勿論、現在の差別と貧困の問題を焙り出す為である。時代劇は昔の風俗を紹介する為にではなく、現在の我々の生活を透かし見せる為に作られる。
 勿論、我々は貧困に陥った時神に人身御供して救ってもらうなどといったことはしないが、反面、今でもそこら中に見られる差別は昔の迷信みたいなものではないかと思わされる。

ただ、洞察力の乏しい人にこの映画が訴えようとしたことは届かないであろうということは、上の疑問がよく示している。それをクリアしていないというもどかしさは、狙いの大部分を理解したはずの僕にも感じられる。先月観た岡本喜八の時代劇2本が鮮やかに現在と江戸時代の昔を重ねて見せたのに比べ、映画としてさほどこなれていないのが惜しい。

他方、本作の本質的な目的ではなく、その精度がどの程度なのか不明であるにしても、昔の風俗が興味をそそらないわけではない。死体の処理が汚れた仕事で最下層の人々がしてきたというのは、遠藤周作「深い河(ディープ・リバー)」に20世紀のインドで不可触賤民が行っている様子が書かれているように、確かな現実であり、日本の昔に思いを馳せたくなる。

埼玉県のクルド人居住地区に近いところで二人の死体が発見されるということがあったらしいが、警察が外国人の関与はないと言っているにも拘らず、維新の国会議員が“一斉に取り締まりをしないと、恐ろしいことになる”というデマを国会で飛ばしたらしい。これなど正に外国人は碌なことをしないという迷信みたいなものではないか。恐ろしいのはその議員の方だ。その翌日、新聞に、故意か偶然か、クルド人が石川県の人たちを助けているという記事が出ていた。

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