映画評「ザ・フラッシュ」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2023年アメリカ=カナダ=オーストラリア=ニュージーランド合作映画 監督アンディ・ムスキエティ
ネタバレあり
DCコミックスのジャスティス・リーグ・メンバーのフラッシュ(エズラ・ミラー)を主人公にしたアメコミ映画。最近のアメコミ映画の例に洩れず、他のスーパーヒーローも絡んで来る「アベンジャーズ」的様相を見せる。
少年時代に母親(マリエル・ベルドゥ)を殺されたフラッシュことバリー・アレンは、自身の光速より速い超高速移動能力を生かして過去へ舞い戻り、母親の殺害の間接的原因となったトマト缶を勝手に母親の籠に置いて戻る。これにより妻殺しの冤罪で訴えられている父親(ロン・リヴィングストン)も無条件に救われる。
彼が18歳の頃にJターンしたバリーは、両親の無事を確認して安心するが、若い彼自身も存在するので大急ぎで処置をめぐらす。この流れの中で18歳の自分を能力者にした代わりに自分の能力を失った為、リーグ仲間のバットマンことブルース・ウェインに頼ろうとするが、彼が過去を変えた為にブルース・ウェインは元いた時(ベン・アフレック)とは別人(マイケル・キートン)で、殆ど落伍者的雰囲気を漂わしてい、がっくり。
というのが中盤までのお話で、パラレル・ワールドとマルチバースを混淆そして混同している感じである。科学とSFの音痴である僕が言うのも何だが、今まで観て来た映画から考えてこの二つは別物である。
バリーが過去を変えることで変わった現在及び未来はパラレル・ワールドである(僕らは若い頃は単に歴史が変わったと捉えたが、今は別の世界が存在していると理解することが多い)。
しかし、バットマンが違う人物なのは、強引に考えればバタフライ効果なのかもしれないが、バタフライ効果では別人がバットマンになったり、スーパーマンの代りにスーパーガール(サッシャ・カジェ)がゾッド将軍(マイケル・シャノン)の目的となるのは容易に説明できない。つまり、こちらはバタフライ効果と関係なくそれぞれの事象が存在するマルチバースと考えるのが妥当。
そう考えて来ると、年長バリーは自分で変えた過去で現在および未来が変わったと思っているが、最初からマルチバースの一つにいるに過ぎないのかもしれない。
マルチバースの中にパラレル・ワールドがあって良いのかもしれないし、近年のマルチバース流行を考えれば純然たるマルチバースで良いのかもしれないが、どうもこの辺り観ていて落ち着かないものがある。
とは言え、マイケル・キートンのバットマンを繰り出してスーパーマンをシベリアに探しに行って発見したスーパーガールを味方につけて、老若フラッシュとバットマンとが、ゾッド将軍一味と対決するというお話は、脚本の弱体が目立つDCコミックス映画版の中では面白い部類である。
が、些か気になるのは、例によって配役における英米ポリコレ症候群である。
スーパーガールがラテン系なのはまだ良しとしても、主人公の潜在的ガールフレンドや、父親の弁護士が黒人なのは厭らしい。有色人種の配役は、史劇・時代劇ではなく、現在劇もしくはSFでやれば良いとした従来の主張と齟齬するが、史劇・時代劇のケースと違って見たままを信じれば良い(これらのジャンルで有色人種を白人役に起用する例が増殖中。かくして画面が信じられないという現象が起き、芝居と違う映画の特性=現実性=を阻害している)のは楽だが、現実味がないとまでは言えないにしても作り手に一種の強迫観念を感じる。
アカデミー協会が配役への有色人種の配慮を言った時からアメリカのメジャー映画は実に奇妙なものになった(それとは多少違う目的と見ているが、僕がここ数年観た米国メジャー映画の主役・準主役の夫婦は9割方異人種夫婦である。これはとてもアメリカの現実とは一致しない。映画だけのアメリカ社会である。かくして映画が社会を反映するという僕の観念も破壊された)。
その割に黒人が主役の映画は多くなっていない気がする。
まだ不安要素はあるが、大谷はほぼ無罪放免となることが決まったようである。二刀流が高校野球でも話題になる時代だが、高校野球では比較的最近までエースで4番は当たり前だった。その意味でバッターとしてもかなり優秀だった江川卓が、大谷のように二刀流が認められたら面白かったと思うし、あるいは高校卒業して即プロ野球に入っていたら実際より100勝以上多い250勝はしたのではないか。球が垂れない為に江川が野球史上一番打ちにくい直球を投げていたのはコンピューターの分析で確認されている。“振り遅れないが当たらない”という掛布などの証言は、そういうことである。
2023年アメリカ=カナダ=オーストラリア=ニュージーランド合作映画 監督アンディ・ムスキエティ
ネタバレあり
DCコミックスのジャスティス・リーグ・メンバーのフラッシュ(エズラ・ミラー)を主人公にしたアメコミ映画。最近のアメコミ映画の例に洩れず、他のスーパーヒーローも絡んで来る「アベンジャーズ」的様相を見せる。
少年時代に母親(マリエル・ベルドゥ)を殺されたフラッシュことバリー・アレンは、自身の光速より速い超高速移動能力を生かして過去へ舞い戻り、母親の殺害の間接的原因となったトマト缶を勝手に母親の籠に置いて戻る。これにより妻殺しの冤罪で訴えられている父親(ロン・リヴィングストン)も無条件に救われる。
彼が18歳の頃にJターンしたバリーは、両親の無事を確認して安心するが、若い彼自身も存在するので大急ぎで処置をめぐらす。この流れの中で18歳の自分を能力者にした代わりに自分の能力を失った為、リーグ仲間のバットマンことブルース・ウェインに頼ろうとするが、彼が過去を変えた為にブルース・ウェインは元いた時(ベン・アフレック)とは別人(マイケル・キートン)で、殆ど落伍者的雰囲気を漂わしてい、がっくり。
というのが中盤までのお話で、パラレル・ワールドとマルチバースを混淆そして混同している感じである。科学とSFの音痴である僕が言うのも何だが、今まで観て来た映画から考えてこの二つは別物である。
バリーが過去を変えることで変わった現在及び未来はパラレル・ワールドである(僕らは若い頃は単に歴史が変わったと捉えたが、今は別の世界が存在していると理解することが多い)。
しかし、バットマンが違う人物なのは、強引に考えればバタフライ効果なのかもしれないが、バタフライ効果では別人がバットマンになったり、スーパーマンの代りにスーパーガール(サッシャ・カジェ)がゾッド将軍(マイケル・シャノン)の目的となるのは容易に説明できない。つまり、こちらはバタフライ効果と関係なくそれぞれの事象が存在するマルチバースと考えるのが妥当。
そう考えて来ると、年長バリーは自分で変えた過去で現在および未来が変わったと思っているが、最初からマルチバースの一つにいるに過ぎないのかもしれない。
マルチバースの中にパラレル・ワールドがあって良いのかもしれないし、近年のマルチバース流行を考えれば純然たるマルチバースで良いのかもしれないが、どうもこの辺り観ていて落ち着かないものがある。
とは言え、マイケル・キートンのバットマンを繰り出してスーパーマンをシベリアに探しに行って発見したスーパーガールを味方につけて、老若フラッシュとバットマンとが、ゾッド将軍一味と対決するというお話は、脚本の弱体が目立つDCコミックス映画版の中では面白い部類である。
が、些か気になるのは、例によって配役における英米ポリコレ症候群である。
スーパーガールがラテン系なのはまだ良しとしても、主人公の潜在的ガールフレンドや、父親の弁護士が黒人なのは厭らしい。有色人種の配役は、史劇・時代劇ではなく、現在劇もしくはSFでやれば良いとした従来の主張と齟齬するが、史劇・時代劇のケースと違って見たままを信じれば良い(これらのジャンルで有色人種を白人役に起用する例が増殖中。かくして画面が信じられないという現象が起き、芝居と違う映画の特性=現実性=を阻害している)のは楽だが、現実味がないとまでは言えないにしても作り手に一種の強迫観念を感じる。
アカデミー協会が配役への有色人種の配慮を言った時からアメリカのメジャー映画は実に奇妙なものになった(それとは多少違う目的と見ているが、僕がここ数年観た米国メジャー映画の主役・準主役の夫婦は9割方異人種夫婦である。これはとてもアメリカの現実とは一致しない。映画だけのアメリカ社会である。かくして映画が社会を反映するという僕の観念も破壊された)。
その割に黒人が主役の映画は多くなっていない気がする。
まだ不安要素はあるが、大谷はほぼ無罪放免となることが決まったようである。二刀流が高校野球でも話題になる時代だが、高校野球では比較的最近までエースで4番は当たり前だった。その意味でバッターとしてもかなり優秀だった江川卓が、大谷のように二刀流が認められたら面白かったと思うし、あるいは高校卒業して即プロ野球に入っていたら実際より100勝以上多い250勝はしたのではないか。球が垂れない為に江川が野球史上一番打ちにくい直球を投げていたのはコンピューターの分析で確認されている。“振り遅れないが当たらない”という掛布などの証言は、そういうことである。
この記事へのコメント
近年のハリウッド、強迫観念にとらわれているようにしか見えない、というのに同意します。
>ハリウッドはギャラは世界一高くなる場所ですから、映画の中心地と見てもおかしくないのかもしれません
ハリウッドと言いますか、アメリカ映画はサイレント後期くらいから、80年間くらい、ずっとリアリティを重視してきたのを観て来た僕としては、ここ10年弱の現実性より人権を・・・というスタンスが残念でなりません。
何年か前の演技賞の候補が全員白人だったという反省がベースですが、対応が間違っていると思います。
映画は社会を反映するツールというのも今は昔となったようです。
インド映画は長すぎる。韓国映画は一時ほどではないにしてもまだ、喜劇性と悲劇性との振幅で勝負しすぎる。ナイジェリア映画については不明。
日本映画は相対的に洗練されていますが、観客が集まる割には“だから日本映画は・・・” と言う観客が多いという矛盾が見られて、どうも妙な具合です。
こうした状況下で、僕はメジャー映画の新作を見る気を相当失っています。
古い映画は確実に見ますけど。インディ映画も観るかな。
こんな日が来るとは。