映画評「クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2019年アメリカ映画 監督タラ・ウッド
ネタバレあり
近年映画関係のドキュメンタリーが多い。チャンスがあれば大体観ている。
本作はTVムービーだが、日本では劇場公開された。劇場用だろうが、TV映画だろうが、ドキュメンタリーに取り上げられる監督は超大物だ。実力もさることながら個性的でないとダメで、アルフレッド・ヒッチコック、ロバート・オルトマン、ブライアン・デ・パルマなどそういう監督ばかりである。
僕はクエンティン・タランティーノのファンでない。特に駄弁を駆使して長くなるところが映画としては良くないと思う。文学的には面白いが、読書と違ってテンポを観客に強要する映画では程良い量にすべきである。「バッドボーイズ」シリーズなど悪影響を受けた例であろうと思う(あちらは本当の駄弁で比較するのも失礼かもしれないが)。これを言うとタランティーノ・ファンに叱られるが、これが僕の映画観なのだから仕方があるまい。「パルプ・フィクション」を未だに取り上げないのは長さがネックとなっているのである。
さて、「レザボア・ドッグス」に始まり、脚本作も含めてほぼ時系列に沿って概ね網羅されている。
「キル・ビル」の画面を見ると、1950年代から70年代映画を引用したことが瞬時に理解できる。一般的に余り言われていないものの、襖を開けると雪に覆われた日本庭園が出て来る感覚は鈴木清順みたいだ。「キル・ビル」が明らかに言及しているのは梶芽衣子主演の「修羅雪姫」だが。
「レザボア・ドッグス」を初めて観た時に”ははぁ、「現金に体を張れ」の借用だな”と思ったが、正にその通りであったことがこの映画でも確認できる。
このシークエンスで僕にとって本作で一番印象深いコメントが出てくる。映画批評家の言う “パクリでもない、オマージュでもない、映画を道具にしている”、それに続くティム・ロスの “映画という言語”、これなり。
僕はパクリと判るパクりはパクリでなく、借用ないし学習の結果と言ってきたが、 “映画を道具にしている” という表現はなかなか気に入った。
「ジャンゴ 繋がれざる者」に主演したジェイミー・フォックスの “差別に敏感すぎることが芸術を押し殺す” というコメントにも膝を叩いた。今の映画が映画芸術的につまらないのは、このせいである。
さすがにタランティーノを扱うドキュメンタリーに出る人たちだけに安易に世相に媚びたりはしない。そうした忖度の無さは、タランティーノ個人に対する、愛するが故の悪口・軽口のような笑い話としても現れる。クイズ番組の人名の解答に ”さん” を付け(ないと批判されると思ってびくびくしてい)る日本人にはほぼできない芸当だ。
それでも「レザボア・ドッグス」を見てタランティーノと早速提携したのがミラマックスだけに、その創設者のハーヴェイ・ワインスタインの話題は避けられない。
世相に媚びたりしないと言っても、タランティーノの意識が低いなんてことはなく、寧ろその逆でワインスタインの事件が確定するや彼は新会社で映画を作り始める。
真に人権の意識が高ければ、本来は差別用語やそうした事象を描かなければならないのだが、通常の人は避けてしまう。腫れ物に触れる感覚で作られたものがどうして感動的なものになろうか。
西部劇でインディアンという言葉を避ける日本の字幕事情くらい馬鹿らしいものはない。その言葉にインディアンへの差別を感じるのが本当ではないか(厳密には日本でインディアンは差別用語でないが)。
その他、普通は名前に言及されることが少ないスタント・ウーマンのゾーイ・ベルの縁の下の力持ち的活躍ぶりや、タランティーノの右腕だったと言う編集者サリー・メンキーへの言及に胸が熱くなった。
昔の映画ではなく現在の映画でも頻繁にインディアンという言葉が出て来るのに全ての字幕翻訳が “先住民” である。 アメリカの行政当局が【インディアン居留地】【インディアン管理局】など未だにインディアンという言葉を使っているのは、エスキモー/イヌイット等他の先住民族と区別する為である。さすがに日本の字幕でも大体これはそのまま。ある映画で実際に出てきた【先住民居留地】は不正確なのでダメだと思う。また、西部劇で白人と闘っているインディアンを“先住民”とするのは物凄く失礼という気がする。彼らは自分達が先住民とならないように戦っているのである。ウクライナを考えて貰えば解ると思う。
2019年アメリカ映画 監督タラ・ウッド
ネタバレあり
近年映画関係のドキュメンタリーが多い。チャンスがあれば大体観ている。
本作はTVムービーだが、日本では劇場公開された。劇場用だろうが、TV映画だろうが、ドキュメンタリーに取り上げられる監督は超大物だ。実力もさることながら個性的でないとダメで、アルフレッド・ヒッチコック、ロバート・オルトマン、ブライアン・デ・パルマなどそういう監督ばかりである。
僕はクエンティン・タランティーノのファンでない。特に駄弁を駆使して長くなるところが映画としては良くないと思う。文学的には面白いが、読書と違ってテンポを観客に強要する映画では程良い量にすべきである。「バッドボーイズ」シリーズなど悪影響を受けた例であろうと思う(あちらは本当の駄弁で比較するのも失礼かもしれないが)。これを言うとタランティーノ・ファンに叱られるが、これが僕の映画観なのだから仕方があるまい。「パルプ・フィクション」を未だに取り上げないのは長さがネックとなっているのである。
さて、「レザボア・ドッグス」に始まり、脚本作も含めてほぼ時系列に沿って概ね網羅されている。
「キル・ビル」の画面を見ると、1950年代から70年代映画を引用したことが瞬時に理解できる。一般的に余り言われていないものの、襖を開けると雪に覆われた日本庭園が出て来る感覚は鈴木清順みたいだ。「キル・ビル」が明らかに言及しているのは梶芽衣子主演の「修羅雪姫」だが。
「レザボア・ドッグス」を初めて観た時に”ははぁ、「現金に体を張れ」の借用だな”と思ったが、正にその通りであったことがこの映画でも確認できる。
このシークエンスで僕にとって本作で一番印象深いコメントが出てくる。映画批評家の言う “パクリでもない、オマージュでもない、映画を道具にしている”、それに続くティム・ロスの “映画という言語”、これなり。
僕はパクリと判るパクりはパクリでなく、借用ないし学習の結果と言ってきたが、 “映画を道具にしている” という表現はなかなか気に入った。
「ジャンゴ 繋がれざる者」に主演したジェイミー・フォックスの “差別に敏感すぎることが芸術を押し殺す” というコメントにも膝を叩いた。今の映画が映画芸術的につまらないのは、このせいである。
さすがにタランティーノを扱うドキュメンタリーに出る人たちだけに安易に世相に媚びたりはしない。そうした忖度の無さは、タランティーノ個人に対する、愛するが故の悪口・軽口のような笑い話としても現れる。クイズ番組の人名の解答に ”さん” を付け(ないと批判されると思ってびくびくしてい)る日本人にはほぼできない芸当だ。
それでも「レザボア・ドッグス」を見てタランティーノと早速提携したのがミラマックスだけに、その創設者のハーヴェイ・ワインスタインの話題は避けられない。
世相に媚びたりしないと言っても、タランティーノの意識が低いなんてことはなく、寧ろその逆でワインスタインの事件が確定するや彼は新会社で映画を作り始める。
真に人権の意識が高ければ、本来は差別用語やそうした事象を描かなければならないのだが、通常の人は避けてしまう。腫れ物に触れる感覚で作られたものがどうして感動的なものになろうか。
西部劇でインディアンという言葉を避ける日本の字幕事情くらい馬鹿らしいものはない。その言葉にインディアンへの差別を感じるのが本当ではないか(厳密には日本でインディアンは差別用語でないが)。
その他、普通は名前に言及されることが少ないスタント・ウーマンのゾーイ・ベルの縁の下の力持ち的活躍ぶりや、タランティーノの右腕だったと言う編集者サリー・メンキーへの言及に胸が熱くなった。
昔の映画ではなく現在の映画でも頻繁にインディアンという言葉が出て来るのに全ての字幕翻訳が “先住民” である。 アメリカの行政当局が【インディアン居留地】【インディアン管理局】など未だにインディアンという言葉を使っているのは、エスキモー/イヌイット等他の先住民族と区別する為である。さすがに日本の字幕でも大体これはそのまま。ある映画で実際に出てきた【先住民居留地】は不正確なのでダメだと思う。また、西部劇で白人と闘っているインディアンを“先住民”とするのは物凄く失礼という気がする。彼らは自分達が先住民とならないように戦っているのである。ウクライナを考えて貰えば解ると思う。
この記事へのコメント
「レザボア・ドッグス」のころはちょっとゴダールっぽいかんじがしてたのはそのせいでしょうね。
日本でも評価の高いタランティーノですが、私も苦手意識が抜けない。
先住民については、タランティーノ自身がチェロキーの血を引いてるそうです。黒人よりも先住民問題はセンシティブなものがありそうなんですね。
インディアンですが、西部劇でインディアンがいっぱい出ていた頃はエキストラの仕事があったそうです。
あと、いまの奥さんがイスラエル出身なんですか? ハマスアタックの後はイスラエル軍を表敬訪問してイスラエル支持を鮮明にしておりました。
べつにいいんですが、無理にしなくてもいいんじゃないかと思いましたよ。
>日本でも評価の高いタランティーノですが、私も苦手意識が抜けない。
駄弁や長さの問題もありますが、肌に合わないところがあります。
>タランティーノ自身がチェロキーの血を引いてるそう
母親のほうですね。
ちょっと雰囲気がないでもない。
>インディアンですが、西部劇でインディアンがいっぱい出ていた頃はエキストラの仕事があったそうです。
「駅馬車」がインディアンの扱いが良くないとしてアメリカではTV放映などできない状態ですが、実はジョン・フォードは雇用することでインディアンに貢献していたようですね。
>あと、いまの奥さんがイスラエル出身なんですか?
そうみたいです。最後の作品に出演しているよう。
あれだけ一般人が亡くなっていることを考えると、イスラエルの弁護はできませんね。この状態のイスラエルを非難すること=反ユダヤ主義という考えのドイツも変です。
このままずっと続いて、イスラエル大好きのトランプが大統領になったらどうなるの? ウクライナも心配ですし。