映画評「教祖誕生」

☆☆★(5点/10点満点中)
1993年日本映画 監督・天間敏宏
ネタバレあり

そう言えばこんな映画があったなあ、と僅かに記憶に残っていた。出演もしているビートたけしの小説の映画化。

帰省の途中若者・萩原聖人が、新興宗教のインチキ奇跡場面に遭遇する。教祖・下條正巳が車椅子に乗った老婦人を治して立たす。観客の想像通り彼女はサクラだが、元々本当に治して貰ったのに感謝にして教団に所属して手伝っているらしい。面白がって教団に着いていくうち、調子に乗った下條が実際の教団主管ビートたけしに追い出されると、教祖に祀り上げられてしまう。
 真面目に布教を考えている青年部トップ玉置浩二の感化もあり、萩原は断食など本格的修行を始める。片や主管や経理の岸部一徳は金になれば何でもありという態度で、これに腹を立てた玉木が主幹に食って掛かった後、女性問題も交えたいざこざの末に主幹に逆襲されて殺されてしまう。
 主幹がいなくなると萩原は自分に高圧的な態度を取る岸部を追い出す。
 5年後服役を終えたビートたけしは再び下條と組んでインチキ奇跡布教をしている。

社会風刺と言うか宗教風刺のコメディー。余り笑えないが、コメディーはファース(笑劇)ではないから、笑えなければダメということにはならない。
 一番笑えるのは幕切れで、前回は神道ベースであったのに今回はキリスト教ベースでビートたけし=下條コンビが布教詐欺をしているところである。要は人の心の弱さをつければ、ベースとなる宗教など何でも良いという次第。

ここに宗教に頼る人々の弱さも婉曲的に風刺されていると思って間違いない。

この2年後にオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした。本作にも新興宗教の暴力性や広大な土地の収得など予知めいたところがないではないが、あのようなスケールで一新興宗教組織が社会を震撼させることになるとはさすがにビートたけしも想像していなかったにちがいない。暴力があると言っても、本作にはオウム真理教のような組織的かつ過激なものは出てこない。
 あの事件の後ならこの映画化はなかったのではないか。馬鹿にできる対象であった新興宗教がそうでないものと認識されすぎたからである。

ビートたけしが殺人の後に、 新教祖に “罰(バチ)が当たったのですよ。神様はいます" と言われ、 "人殺しをしないと、神の存在は信じられないのか" といったやりとりする辺りの神妙な哲学(かつブラックな笑い)が印象に残るのは良し悪し。その結果迫力のある宗教風刺コメディーになっていないような気がする。

欧米人の考えるコメディーの範囲(極端に言えば、悲劇でないものは全てコメディー。但し、映画では従来の演劇が考えるほど広くないだろう)と、日本人の考える喜劇は大分違う。ファースがコメディーの一分野であるのは間違いないが、日本人はコメディーとファースを同一視している。ファースは日本語として定着しなかったからそういう差が生れなかったのだろうが、最初から差を考えなかったからファースが定着しなかったとも言える。

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