映画評「せかいのおきく」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2023年日本映画 監督・阪本順治
ネタバレあり
阪本順治も実に色々な作品を撮る。映画作家系としては珍しいタイプだが、それぞれに骨がある感じで、その行き方に感服する。
今回のテーマは一つ江戸時代の青春だが、その青春を謳歌する二人の若者の商売が汚穢屋(おわいや)や紙屑買いであるわけで、循環社会だった江戸を現代的なテーマで蘇らせている。青春映画を通して循環社会を、あるいは循環社会を通して青春を描く、こんな発想がどこから出て来たのだろうか?
幕末。現在で言う公衆便所の前で汚穢屋の池松壮亮と紙屑買いの寛一郎が雨宿りをしている。そこへ長屋暮らしの元武家娘、黒木華のおきくがやって来る。武家娘としては人の近くで排泄などできないので、二人を追っ払う。
という序章に色々な情報が詰まっている。とりわけ、共に知り合いらしい若者たち夫々へのおきくの感情の差が現れているのが秀逸であろう。
章の終りの数秒は必ず(最後の二章を除く)カラーとなる。
おきくの父の佐藤浩市は長屋に追い出されたように訳ありらしく、結局、侍二人に斬られ、父の後を追いかけたおきくも巻き添えで喉を斬られる。最中の描写はなく結果だけが描写される。
かくして彼女は命に別状ないものの声を失うが、やがて寺子屋の師として復帰する。
寛一郎は割の良いらしい汚穢業に転業して池松の弟分になる。寛一郎は身分差があるにも拘らず自分に愛情を示した彼女に対して、その父が死ぬ前に教えた“世界で一番君が好きだ”と体で表現、やがて気持ちは伝わる。相思相愛だ。
最終章はフランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく」(1961年)のような女一人男二人の青春場面。
人々が恐らく “世界” という概念を持たなかった江戸時代だけに “世界” や “青春” という、恐らく明治以降に生れたであろう言葉が却って生きて来る。時代と言葉の関係にうるさい僕はこれに関しては良いと思った。
逆に、“ちげーんです” はダメだ。
平成に生れた “ちげーよ” の語源ははっきりしないが、 僕は時代劇でよく出て来る “ちげえねえ(違いない)” から否定の “ねえ” を取り去ったものと考えている。否定でなくなるから “違う” の意味になる。世界の音韻変化を調べても、 “違う” から “ちげえ” という音韻変化は生まれない。 “ちがう” が変化するとすれば “ちごう” である。現在 auto は “オート” と発音するが、かつては “アウト” であった。
50歳以下の世代に流行しているとは言え、絶対的に日本語として普及・定着しているとは言えない新しすぎる言葉は、昭和を含めてそれ以前の時代で使うのは不適当。言葉には時代ムードがあるからである(平成で生まれた言葉を同じ平成でも、それ以前の舞台設定で使うと違和感が生れることは必定)。
“違くて” という表現もある。これの発生過程も謎だが、“違って” のほうが実質的に音韻数は少なく効率が良い。意外にこれは若い人に広まっている模様。 “ちがうかった“ という表現もあるらしい。品詞が特定できない妙な日本語だ。最近の妙な日本語の例に、 “肉々しい” がある。“憎々しい” という言葉があるので生まれやすい土壌があったと見るが、紛らわしくはないものの、 “肉っぽい” のほうが音韻数が少なくて効率的。これに似た使い方で、 “水々しい” というのを聞いた。 “瑞々しい” と意味は似ているが、 勿論新語のほうは水っぽいという意味である。 これはまだ流行していないので、別の人が確認していた。
2023年日本映画 監督・阪本順治
ネタバレあり
阪本順治も実に色々な作品を撮る。映画作家系としては珍しいタイプだが、それぞれに骨がある感じで、その行き方に感服する。
今回のテーマは一つ江戸時代の青春だが、その青春を謳歌する二人の若者の商売が汚穢屋(おわいや)や紙屑買いであるわけで、循環社会だった江戸を現代的なテーマで蘇らせている。青春映画を通して循環社会を、あるいは循環社会を通して青春を描く、こんな発想がどこから出て来たのだろうか?
幕末。現在で言う公衆便所の前で汚穢屋の池松壮亮と紙屑買いの寛一郎が雨宿りをしている。そこへ長屋暮らしの元武家娘、黒木華のおきくがやって来る。武家娘としては人の近くで排泄などできないので、二人を追っ払う。
という序章に色々な情報が詰まっている。とりわけ、共に知り合いらしい若者たち夫々へのおきくの感情の差が現れているのが秀逸であろう。
章の終りの数秒は必ず(最後の二章を除く)カラーとなる。
おきくの父の佐藤浩市は長屋に追い出されたように訳ありらしく、結局、侍二人に斬られ、父の後を追いかけたおきくも巻き添えで喉を斬られる。最中の描写はなく結果だけが描写される。
かくして彼女は命に別状ないものの声を失うが、やがて寺子屋の師として復帰する。
寛一郎は割の良いらしい汚穢業に転業して池松の弟分になる。寛一郎は身分差があるにも拘らず自分に愛情を示した彼女に対して、その父が死ぬ前に教えた“世界で一番君が好きだ”と体で表現、やがて気持ちは伝わる。相思相愛だ。
最終章はフランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく」(1961年)のような女一人男二人の青春場面。
人々が恐らく “世界” という概念を持たなかった江戸時代だけに “世界” や “青春” という、恐らく明治以降に生れたであろう言葉が却って生きて来る。時代と言葉の関係にうるさい僕はこれに関しては良いと思った。
逆に、“ちげーんです” はダメだ。
平成に生れた “ちげーよ” の語源ははっきりしないが、 僕は時代劇でよく出て来る “ちげえねえ(違いない)” から否定の “ねえ” を取り去ったものと考えている。否定でなくなるから “違う” の意味になる。世界の音韻変化を調べても、 “違う” から “ちげえ” という音韻変化は生まれない。 “ちがう” が変化するとすれば “ちごう” である。現在 auto は “オート” と発音するが、かつては “アウト” であった。
50歳以下の世代に流行しているとは言え、絶対的に日本語として普及・定着しているとは言えない新しすぎる言葉は、昭和を含めてそれ以前の時代で使うのは不適当。言葉には時代ムードがあるからである(平成で生まれた言葉を同じ平成でも、それ以前の舞台設定で使うと違和感が生れることは必定)。
“違くて” という表現もある。これの発生過程も謎だが、“違って” のほうが実質的に音韻数は少なく効率が良い。意外にこれは若い人に広まっている模様。 “ちがうかった“ という表現もあるらしい。品詞が特定できない妙な日本語だ。最近の妙な日本語の例に、 “肉々しい” がある。“憎々しい” という言葉があるので生まれやすい土壌があったと見るが、紛らわしくはないものの、 “肉っぽい” のほうが音韻数が少なくて効率的。これに似た使い方で、 “水々しい” というのを聞いた。 “瑞々しい” と意味は似ているが、 勿論新語のほうは水っぽいという意味である。 これはまだ流行していないので、別の人が確認していた。
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