映画評「逆転のトライアングル」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2022年スウェーデン=イギリス=デンマーク=ドイツ=メキシコ=フランス=スイス=トルコ=ギリシャ合作映画 監督リュ―ベン・オストルンド
ネタバレあり
「フレンチアルプスで起きたこと」や「ザ・スクエア 思いやりの聖域」で人間風刺をしてみせたスウェーデンの異才リューベン・オストルンド監督の新作。
インフルエンサーでもあるモデルのチャービ・ディーンと男性モデルのハリス・ディクスンがレストランの支払いをどちらがするかで口論になる。主題展開のための第一の布石である。
その彼らが、客室乗務員がチップの為なら何でもお客の要求に応えることをモットーとしている豪華客船に招かれるが、嵐で船内は阿鼻叫喚の地獄となり、収まった翌朝に今度はテロリストか海賊に襲われて沈没する。
船が嵐で揺れ始めた頃船長ウディ・ハレルスン(資本主義国の共産主義者)とロシアの肥料業者ズラッコ・ブリッチ(共産主義国で生きてきた資本主義者)とがお金に絡む箴言を戦わせている。これが第二の布石である。
第一の布石も第二の布石も長いので退屈すること必定であるが、終わってみると結構重要であることが解る。
乗務員のトップ一人ヴィッキ・ベルリンと主人公カップル二人を含む六人の金持が孤島に打ち上げられて助けが来るまでどう頑張るかを考え始める。翌朝潜水艇型の救命ボートが発見され、船で掃除係をしていたドリー・デ・レオンもこのメンバーに加わる。計八人の中で一番サバイバル能力のあるこの掃除婦がキャプテンを宣言し、他の七人を好きなように扱う。
下層階級の女性が上流下級を支配するこれが邦題の意味するところだろうが、力のある者がない者の上に立つのはコミュニティー成立の最初でないかと思え、国を考える時あるいは資本主義または独裁的共産主義国を考える時に大いに示唆するものがあるような気がする。
第一の布石(もしくは第一部)がかなり冗長に見える。男性モデルがそもそも女性の1/3のギャラであり、ましてディクスン君が落ち目であることを示し、お金を巡るお話として今後展開知ることを示す重要な布石であるとしてももう少し簡潔にできよう。
それに比べれば第二の布石は自分の言葉ではなく箴言の対決だから一定の面白味がある。
お金は人間関係をややこしくしたり、上下関係を作ったり、果ては紛争・戦争などをもたらしかねない。そんな物質社会を寓意的に見せた上で、文明から隔絶した孤島ではお金が無意味になることを示すわけである。
お金を離れても主人公のカップルは同じような口論をしている辺りに布石の別種の展開を感じるが、その逆転をさらに再逆転するのが幕切れである。
珍作「吸血鬼ゴケミドロ」(1968年)に似たビックリの展開で、掃除婦とチャービだけがその事実に気付く。こうなると掃除婦はキャプテンの座を奪われることになるので背を向けているチャービを叩き殺そうと考えるが、相手の言葉に一瞬足が止まる。さて掃除婦は彼女を殺そうとするかどうか。
はっきりしないまま終わるものの、残念ながらチャービは襲われるはず。何故なら最終的に彼女は掃除婦を雇っても良いという上から目線の言葉を吐くからである。一旦掃除婦の足が止まるのは、相手が同等の協力関係を申し出ると思ったからで、それが直後に間違いだったと知るのである。芸は身を助けるが、傲慢は身を破滅させる。
1919年の「男性と女性」以降、よくある設定ではあります。
2022年スウェーデン=イギリス=デンマーク=ドイツ=メキシコ=フランス=スイス=トルコ=ギリシャ合作映画 監督リュ―ベン・オストルンド
ネタバレあり
「フレンチアルプスで起きたこと」や「ザ・スクエア 思いやりの聖域」で人間風刺をしてみせたスウェーデンの異才リューベン・オストルンド監督の新作。
インフルエンサーでもあるモデルのチャービ・ディーンと男性モデルのハリス・ディクスンがレストランの支払いをどちらがするかで口論になる。主題展開のための第一の布石である。
その彼らが、客室乗務員がチップの為なら何でもお客の要求に応えることをモットーとしている豪華客船に招かれるが、嵐で船内は阿鼻叫喚の地獄となり、収まった翌朝に今度はテロリストか海賊に襲われて沈没する。
船が嵐で揺れ始めた頃船長ウディ・ハレルスン(資本主義国の共産主義者)とロシアの肥料業者ズラッコ・ブリッチ(共産主義国で生きてきた資本主義者)とがお金に絡む箴言を戦わせている。これが第二の布石である。
第一の布石も第二の布石も長いので退屈すること必定であるが、終わってみると結構重要であることが解る。
乗務員のトップ一人ヴィッキ・ベルリンと主人公カップル二人を含む六人の金持が孤島に打ち上げられて助けが来るまでどう頑張るかを考え始める。翌朝潜水艇型の救命ボートが発見され、船で掃除係をしていたドリー・デ・レオンもこのメンバーに加わる。計八人の中で一番サバイバル能力のあるこの掃除婦がキャプテンを宣言し、他の七人を好きなように扱う。
下層階級の女性が上流下級を支配するこれが邦題の意味するところだろうが、力のある者がない者の上に立つのはコミュニティー成立の最初でないかと思え、国を考える時あるいは資本主義または独裁的共産主義国を考える時に大いに示唆するものがあるような気がする。
第一の布石(もしくは第一部)がかなり冗長に見える。男性モデルがそもそも女性の1/3のギャラであり、ましてディクスン君が落ち目であることを示し、お金を巡るお話として今後展開知ることを示す重要な布石であるとしてももう少し簡潔にできよう。
それに比べれば第二の布石は自分の言葉ではなく箴言の対決だから一定の面白味がある。
お金は人間関係をややこしくしたり、上下関係を作ったり、果ては紛争・戦争などをもたらしかねない。そんな物質社会を寓意的に見せた上で、文明から隔絶した孤島ではお金が無意味になることを示すわけである。
お金を離れても主人公のカップルは同じような口論をしている辺りに布石の別種の展開を感じるが、その逆転をさらに再逆転するのが幕切れである。
珍作「吸血鬼ゴケミドロ」(1968年)に似たビックリの展開で、掃除婦とチャービだけがその事実に気付く。こうなると掃除婦はキャプテンの座を奪われることになるので背を向けているチャービを叩き殺そうと考えるが、相手の言葉に一瞬足が止まる。さて掃除婦は彼女を殺そうとするかどうか。
はっきりしないまま終わるものの、残念ながらチャービは襲われるはず。何故なら最終的に彼女は掃除婦を雇っても良いという上から目線の言葉を吐くからである。一旦掃除婦の足が止まるのは、相手が同等の協力関係を申し出ると思ったからで、それが直後に間違いだったと知るのである。芸は身を助けるが、傲慢は身を破滅させる。
1919年の「男性と女性」以降、よくある設定ではあります。
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