映画評「アタラント号」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1933年フランス映画 監督ジャン・ヴィゴ
ネタバレあり
1934年に29歳で夭折したジャン・ヴィゴの遺作。多分前回も「新学期 操行ゼロ」と同時に衛星放送で観たと思う。30余年前だろう。
お話は極めて他愛ない。
アタラント号なるはセーヌ川を往来する艀(はしけ)である。
アタラント号の船長ジャン・ダステが、結婚したばかりの新妻ディタ・パルロを船に乗せる。若い妻はパリへの思いにはやり、船中生活で思うに任せない為、遂にこっそり上陸して町を彷徨して掏りに会うなどし、戻った時にはアタラント号は怒った船長により出航した後。
しかるに、愛しい新妻のいないことに精神の安定を失った彼は川に飛び込むなど、海上経験も豊富なベテラン副長ミシェル・シモンの気を揉ませる。
シモン老は見当を付けた場所で彼女を発見、担ぎ出して船に連れて来る。別段夫に不満があったわけでもない彼女は夫に抱きつき、かくしてアタラント号は再び動き出す。
最後、出航したばかりのアタラント号を捉えた俯瞰がいかしている。やはりヴィゴは物語ではなく画面の人で、本作は映像の散文詩である。イメージではなく叙事で繋げているが、やはり詩である。
今回一番実験性を感じたのは、船長と新妻の身悶えを短いカットバックで構成しつつ、しかもその両者を同時に二重露出で見せる、幻想的かつ官能的な箇所。全体が慢々的なスケッチ風なタッチなので、ここが頗る目立つ。
前回「新学期 操行ゼロ」でも述べたようにこの頃はかなり映像の実験を行う人がいて、この手のアイデアはヴィゴだけだったというわけではない(とりわけ二重露出はサイレント期から人気でかなり多い)ものの、ぐっと後年の映画を観るような気がする。
ヴィゴの残したたった二本の劇映画を観て、フランソワ・トリュフォーが直系の後継者であるような気がしてきた。「操行ゼロ」が「大人は判ってくれない」になり、本作は「夜霧の恋人たち」「家庭」といった洒落っ気満点の青年期ドワネルものに発展したように思われる。ヴィゴができなかったことをトリュフォーがしたと言えば大袈裟だろうか?
トリュフォーは本数こそ少なくないけれども、この時代にあっては夭折と言える歳でなくなった。
1933年フランス映画 監督ジャン・ヴィゴ
ネタバレあり
1934年に29歳で夭折したジャン・ヴィゴの遺作。多分前回も「新学期 操行ゼロ」と同時に衛星放送で観たと思う。30余年前だろう。
お話は極めて他愛ない。
アタラント号なるはセーヌ川を往来する艀(はしけ)である。
アタラント号の船長ジャン・ダステが、結婚したばかりの新妻ディタ・パルロを船に乗せる。若い妻はパリへの思いにはやり、船中生活で思うに任せない為、遂にこっそり上陸して町を彷徨して掏りに会うなどし、戻った時にはアタラント号は怒った船長により出航した後。
しかるに、愛しい新妻のいないことに精神の安定を失った彼は川に飛び込むなど、海上経験も豊富なベテラン副長ミシェル・シモンの気を揉ませる。
シモン老は見当を付けた場所で彼女を発見、担ぎ出して船に連れて来る。別段夫に不満があったわけでもない彼女は夫に抱きつき、かくしてアタラント号は再び動き出す。
最後、出航したばかりのアタラント号を捉えた俯瞰がいかしている。やはりヴィゴは物語ではなく画面の人で、本作は映像の散文詩である。イメージではなく叙事で繋げているが、やはり詩である。
今回一番実験性を感じたのは、船長と新妻の身悶えを短いカットバックで構成しつつ、しかもその両者を同時に二重露出で見せる、幻想的かつ官能的な箇所。全体が慢々的なスケッチ風なタッチなので、ここが頗る目立つ。
前回「新学期 操行ゼロ」でも述べたようにこの頃はかなり映像の実験を行う人がいて、この手のアイデアはヴィゴだけだったというわけではない(とりわけ二重露出はサイレント期から人気でかなり多い)ものの、ぐっと後年の映画を観るような気がする。
ヴィゴの残したたった二本の劇映画を観て、フランソワ・トリュフォーが直系の後継者であるような気がしてきた。「操行ゼロ」が「大人は判ってくれない」になり、本作は「夜霧の恋人たち」「家庭」といった洒落っ気満点の青年期ドワネルものに発展したように思われる。ヴィゴができなかったことをトリュフォーがしたと言えば大袈裟だろうか?
トリュフォーは本数こそ少なくないけれども、この時代にあっては夭折と言える歳でなくなった。
この記事へのコメント
> お話は極めて他愛ない
ヴィゴの自伝映画によると映画制作を後押ししてくれる出資者が現れて、ヴィゴは馬の映画を撮りたいと言うものの「馬は金が掛かる」と却下され、自らの体験を基にして書いた「新学期…」を撮ったようです。
ところが当時といえどもそこまで反社会的とも思えない内容なのに上映禁止処分にされてしまったのは彼の父親がアナーキストとして謎の獄中死を遂げていた事が影響していたようです。この辺りは二つの大戦間の歴史の闇を感じます。
その次に外から持ち込まれた話が本作なんですが、当初ヴィゴはラブストーリーなんか撮りたくないと突っぱねたようです。
何を撮るかではなく如何に撮るかが大切である、のお手本のような映画ですね。
完成を見ることなくヴィゴは亡くなってしまいますが…
私は最初に観た時、本作の1:15位からのシーンを観て「大人は判ってくれない」のラストシーンを連想しました。その時はヴィゴとトリュフォーとの関連なんか全然知りませんでしたが今回両方のシーンを見直してみて確信しましたよ。
エミール・クストリッツァもかなり影響されていますよね。花嫁シーンがよく出てきて、花嫁のベールが飛んでいったり、はたまた花嫁が空中浮遊したり ^_^
超有名な舳先で後ろから抱きしめる場面は映画の歴史を見るようで面白いですね。
サイレント映画の「風」→ 「アタラント号」→「ポンヌフの恋人」→「タイタニック」と繋がってますが、他にもありますかね?
>何を撮るかではなく如何に撮るかが大切である、のお手本のような映画
そうですね。
“ヴィゴは物語ではなく画面の人”という僕の意見も、概ねそういう意味です。
>本作の1:15位からのシーンを観て「大人は判ってくれない」のラストシーンを連想
僕が重視した身悶え二重露出シーンの後を受けて、主人公が船外に出て走るところですね。
こちらを「大人」の十数年後に観た時、残念ながら僕は想起しませんでしたねえ。得意の勘が働かなったみたい(笑)
>エミール・クストリッツァもかなり影響されていますよね
>花嫁が空中浮遊したり
あったような気がするなあ^^
よく思い出せないけれど。
僕は、クストリッツァの作品からは、フェリーニに思い出すことが多いです。
>サイレント映画の「風」→ 「アタラント号」→「ポンヌフの恋人」→
>「タイタニック」と繋がってますが、他にもありますかね?
「タイタニック」の真似という体裁では色々ありますが、昔の映画の系譜を辿るという感じではないでしょうね。
>クストリッツァの作品からは、フェリーニに思い出すことが多いです。
言われてみればそうですね!
冠婚葬祭といえばラッパ吹き鳴らして大騒ぎして、一件落着。
「 人生は祝祭だ!」モード?
お葬式の時はそこまで騒いでないかな…
そういえばオカピー先生はクストリッツアの作品はあまりレビューしておられませんね。 私、「ジプシーのとき」なんか大好きなんですけど…❓
代表作のようにいわれる「アンダーグラウンド」はユーゴスラビアの歴史的立ち位置がよく分からないのとやたら長いのでちょっと疲れます。(昔の文芸長編映画は途中で休憩タイムが入りましたよね) 自主的途中休憩が必要です。
今「途中休憩」を「地中休憩」と打ち込んでしまいましたが、「アンダーグラウンド」ってまさに「地中休憩」みたいなお話でしたよね?
花嫁が空中浮遊?しているのは「アンダーグラウンド」の有名な場面ですね。
それから湖でカナヅチ青年が溺れているところにウェディングドレス姿の花嫁が現れるという、まさにアタラント号のあのシーンの再現もやってます。
いやぁ、映画って楽しいですね(^^)
>オカピー先生はクストリッツアの作品はあまりレビューしておられませんね。
6本UPしています。そのうち3本はドキュメンタリー。
1980年代後半から90年代の作品は、作者に関係なく、2005年にブログを始め、大体20~25年くらいしないと再鑑賞しないというポリシーの関係で、タイミングの都合上多くないですね。
つまり、初期・中期の作品を取り上げていないのですが、完全に再鑑賞するタイミングが来ていますので、観るチャンスがあれば行きますよ。
「アンダーグラウンド」がプライムビデオ無償枠にありましたけど、今年はオリンピックがある(その期間は数本しか観られない為、現在本数稼ぎをしています)ので、長いのは五輪の後でないと避けざるを得ないのですよ^^