映画評「もう頬づえはつかない」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1979年日本映画 監督・東陽一
ネタバレあり

40余年ぶりの鑑賞。僕が大学生活に悪戦苦闘していた時代がそのまま画面にあって涙が出てきた。

ヒロインまり子(桃井かおり)は、僕が国立大学に受からなければ行った可能性もある早大第一文学部に通う女子大生で、同校の卒業論文に小説創作を選んだ見延典子が自らをモデルにして作り上げた人物でありましょう。

彼女は現在同窓の橋本君(奥田英二=現在の瑛二)と同棲中だが、売れないルポライターの恒雄(森本レオ)に未練を持っていて、突然舞い戻って来て現れた彼と焼け木杭に火がついた状態になってしまう。

暫くの間、随時過去が挿入される。昔の映画と違ってオーヴァーラップなど使わず直接にカットを繋ぐのでボーっと見ているとわけが解らないことになるが、ちゃんと見ていれば時間軸が違うことが解るようには作られている。

その過去の場面群を整理すると、何気なく始まってしまった橋本君との関係はさほど真剣なものではなく、橋本君から “風来坊” と揶揄される恒雄のほうとは腐れ縁的ながら明らかに懇ろである。
 森元レオと桃井かおりの実年齢を考えると、このカップルはかなり年の差がありそうだが、口の利き方を見ると同世代的に気が置けない関係のようである。傍観者としては未練を覚えるような甲斐性のある男でもないのに、情ない故に愛するという心境であったろうか? 学生運動体験者であろう恒雄に何か芯のあるものでも感じたのだろうか?

学生運動をじかに経験していないシラケ世代には、シラケ気分を見事に体現しているような橋本君は箸にも棒にもかからない存在と最初から排除されていたようである。
 しかるに、理由も言わずに30万円を要求し、彼女が堕胎した後に(堕胎について言わず)妊娠の事実を告げた時に “俺は父親にはならない” と何の感情もなく言ってのける男にこれ以上の未練は持てなかったようで、まり子は橋本君とも恒雄とも縁を切るのである。

シラケ世代の恋愛の情景を描いているわけだが、アパートの所有者である夫(伊丹十三)とパーマ屋をする妻(加茂さくら)の夫婦関係と合わせて考えると【男女の愛情関係は奇妙なり】というのがキー・ワードとして浮かんでくる。

国立と私立の違いはあるがキャンパスの雰囲気は大して変わらないし、アパートのピンク電話もそのまま。半年さぼって留年し次の年に頑張るぞと大学へ行ったら同級生の女の子が膨らんだ腹をかかえて学校に来ているのを見て(半年見ないうちに何と!という気分で)驚いたことを思い出す。この映画のまり子も堕胎しなければあのようになったと思うと、極めて実感の湧く場面群という感慨が湧きあがって来た。

東陽一監督の画面感覚は古びていないように思え、純粋に映画的に満足するものがある。

桃井かおりの演技が充実していて貢献度が断然高い。この頃から台頭してきた奥田瑛二の頼りなさもなかなか印象深い。暫く見ずにいたある時何かの作品で見かけて、いつの間にか貫禄のある役を演ずる役者になって瞠目した記憶がある。

見延典子は僕より少し年上だが、世代的にはほぼ同じ。僕等はシラケ世代後半で新人類とも言われた世代の中核だ。

この記事へのコメント

vivajiji
2024年06月13日 08:26
http://blog.livedoor.jp/vivajiji/archives/50701756.html#comments

いやはや、懐かしい作品!

”観たくないけれど、観てしまう”
気恥ずかしさと矛盾した気持ちが
行ったり来たり。

拙ブログはじめてまだ数ヶ月頃の記事、
思いのまま書き連ねていましたなぁ。
恥ずかしながら持参しました。

あんな時代もあって、今がある・・
なぁ〜んて言ってみたりして。
オカピー
2024年06月13日 22:31
vivajijiさん、こんにちは。

>拙ブログはじめてまだ数ヶ月頃の記事

当時、凄くパワーを感じましたねえ。
僕が始めたばかりで、生意気でしたなあ。多くは上手くやりましたが、中には喧嘩みたいになって行き来がなくなったブログもありましたよ。

>あんな時代もあって、今がある・・

僕が正に大学生だった時代。僕が知っている大学、東京がそのままあり、それだけでも感動します。純粋に映画としても良いですね。