映画評「レジェンド&バタフライ」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2023年日本映画 監督・大友啓史
ネタバレあり
近年スターの出る時代劇は大きな期待をしない方が無難だが、「るろうに剣心」シリーズで良いアクションを見せた大友啓史監督は、織田信長を主人公にした本作ではアクションに頼らず、TVドラマ的と言えばそれまでながら、夫婦の愛憎の機微というアングルで信長ものを仕立てて見せた。
美濃国の大名斎藤道三(北大路欣也)の娘濃姫(綾瀬はるか)が政略結婚で隣国尾張の織田信秀(本田博太郎)の嫡男信長(木村拓哉)に嫁ぐ(1548年)が、気が強く武道に秀でているので、信長と激しく敵対する。そもそも信長を倒すのが彼女の眼目で、嫡男との戦いで道三が死んだ(1556年)後も、戦略を授けて桶狭間の戦い(1560年)に勝利させたり、後に将軍になる足利義昭の許に駆け付けさせるのも、彼の戦死を狙ったものである。
これ以降その目的通り信長は追い詰められるが、それに反比例するように彼女の信長への憎悪は減って愛情に置き換わり、信長も反転して再び快進撃を続け天下統一に近づく。
そして、一度離縁して長患いをする濃姫と復縁した後にかの本能寺の変が起きる(1582年)。
中断するものの30年余の夫婦関係が憎悪から、愛情を土台にしたものに変わっていくというドラマで、とりわけ若い時(史実では信長14歳、濃姫13歳くらい)の女性上位が現在の時代劇らしいとは言え、とりわけ一般的に知られる信長の性格を考えると、大分アングルを付けたという印象を覚える。
それ以外の部分ではほぼ史実に沿っていて、信長ものでも本格的に扱われることの少ない比叡山焼き討ちがきちんと描かれているところを買う。これは信長の部下で従軍ジャーナリストであった太田牛一が書いたとおりに再現されている。彼は女子供が焼死させられることについて、当然主君の信長の残虐を指摘しないまでも、とても正視できなかったと綴っている。
ハイライトはほぼ唯一のアクションと言っても良い本能寺の変をめぐる扱いである。
信長は地下に逃れて安土城で待っている濃姫と会い、手を取り合って海外に出る。ところが、【信長は死んでいない】説を取ったかと思わせておいて、これは実は彼が自死する直前に見た【邯鄲の枕】の類であったと判明する。
実際には、信長が濃姫に買い与えた蛙の香炉を手にしながらこの夢を見ていた時に濃姫はリュートを抱えて息絶える。夫婦の思いがリュートと蛙の香炉とを通して感応しているわけで、夫婦愛ものとしてなかなか感動的ではあるまいか。かなりしっかりと見せていると思う。
ところで、言葉にうるさい僕がこの映画の時代劇としての言葉遣いに感心した。
最近の時代劇がほぼ現代語であるのに対し、本作は現在人に解る程度の程良い古さの口語を基調とし、そこに美濃や尾張の方言を加えている。戦国時代ともなると完全に書き言葉と話し言葉とは分かれていて、話し言葉では現在の人間にもある程度分かる単語(勿論この映画のものよりはずっと古語だが)が使われ、しかも、そこにかなり方言が混じっていた、と僕は推測する。本作は、僕のこの言語観に全く合っているのである。
若者向けタイム・トリップものの言語感覚(現在人が即座にその時代の人とコミュニケートできるナンセンス)に苦笑することが続いていただけにこれには膝を打った。ここに関して脚本の古沢良太は実に良い仕事をしたと思う。
少なくとも単語の8割は現在ないか若しくは意味が変わってい、文法も違い、発音も殆ど聞き取れないはずの平安時代に行って会話が出来るのは、平安時代の人間が洋服を着ているのを見るに等しい。古文であれほど苦労した筈なのに、その常識が何故解らない? ここまで違うものを【約束】と言うのは無理がある。一般時代劇で平安時代人の言葉が現在の観客に解るのは作者と観客の【約束】である。勿論、これには何の問題もない。
2023年日本映画 監督・大友啓史
ネタバレあり
近年スターの出る時代劇は大きな期待をしない方が無難だが、「るろうに剣心」シリーズで良いアクションを見せた大友啓史監督は、織田信長を主人公にした本作ではアクションに頼らず、TVドラマ的と言えばそれまでながら、夫婦の愛憎の機微というアングルで信長ものを仕立てて見せた。
美濃国の大名斎藤道三(北大路欣也)の娘濃姫(綾瀬はるか)が政略結婚で隣国尾張の織田信秀(本田博太郎)の嫡男信長(木村拓哉)に嫁ぐ(1548年)が、気が強く武道に秀でているので、信長と激しく敵対する。そもそも信長を倒すのが彼女の眼目で、嫡男との戦いで道三が死んだ(1556年)後も、戦略を授けて桶狭間の戦い(1560年)に勝利させたり、後に将軍になる足利義昭の許に駆け付けさせるのも、彼の戦死を狙ったものである。
これ以降その目的通り信長は追い詰められるが、それに反比例するように彼女の信長への憎悪は減って愛情に置き換わり、信長も反転して再び快進撃を続け天下統一に近づく。
そして、一度離縁して長患いをする濃姫と復縁した後にかの本能寺の変が起きる(1582年)。
中断するものの30年余の夫婦関係が憎悪から、愛情を土台にしたものに変わっていくというドラマで、とりわけ若い時(史実では信長14歳、濃姫13歳くらい)の女性上位が現在の時代劇らしいとは言え、とりわけ一般的に知られる信長の性格を考えると、大分アングルを付けたという印象を覚える。
それ以外の部分ではほぼ史実に沿っていて、信長ものでも本格的に扱われることの少ない比叡山焼き討ちがきちんと描かれているところを買う。これは信長の部下で従軍ジャーナリストであった太田牛一が書いたとおりに再現されている。彼は女子供が焼死させられることについて、当然主君の信長の残虐を指摘しないまでも、とても正視できなかったと綴っている。
ハイライトはほぼ唯一のアクションと言っても良い本能寺の変をめぐる扱いである。
信長は地下に逃れて安土城で待っている濃姫と会い、手を取り合って海外に出る。ところが、【信長は死んでいない】説を取ったかと思わせておいて、これは実は彼が自死する直前に見た【邯鄲の枕】の類であったと判明する。
実際には、信長が濃姫に買い与えた蛙の香炉を手にしながらこの夢を見ていた時に濃姫はリュートを抱えて息絶える。夫婦の思いがリュートと蛙の香炉とを通して感応しているわけで、夫婦愛ものとしてなかなか感動的ではあるまいか。かなりしっかりと見せていると思う。
ところで、言葉にうるさい僕がこの映画の時代劇としての言葉遣いに感心した。
最近の時代劇がほぼ現代語であるのに対し、本作は現在人に解る程度の程良い古さの口語を基調とし、そこに美濃や尾張の方言を加えている。戦国時代ともなると完全に書き言葉と話し言葉とは分かれていて、話し言葉では現在の人間にもある程度分かる単語(勿論この映画のものよりはずっと古語だが)が使われ、しかも、そこにかなり方言が混じっていた、と僕は推測する。本作は、僕のこの言語観に全く合っているのである。
若者向けタイム・トリップものの言語感覚(現在人が即座にその時代の人とコミュニケートできるナンセンス)に苦笑することが続いていただけにこれには膝を打った。ここに関して脚本の古沢良太は実に良い仕事をしたと思う。
少なくとも単語の8割は現在ないか若しくは意味が変わってい、文法も違い、発音も殆ど聞き取れないはずの平安時代に行って会話が出来るのは、平安時代の人間が洋服を着ているのを見るに等しい。古文であれほど苦労した筈なのに、その常識が何故解らない? ここまで違うものを【約束】と言うのは無理がある。一般時代劇で平安時代人の言葉が現在の観客に解るのは作者と観客の【約束】である。勿論、これには何の問題もない。
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