映画評「花腐し」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2023年日本映画 監督・荒井晴彦
ネタバレあり
2000年上半期芥川賞を受賞した松浦寿輝の同名小説を荒井晴彦が脚色して自ら映像に移した人間ドラマである。腐しは “くたし” と読み、「万葉集」の一首からの拝借である。
ピンク映画の監督・栩谷(くたに=綾野剛)は、長く同棲した売れない女優祥子(さとうほなみ)に、監督仲間の桑山(吉岡睦雄)と心中されて悄然とする。地方に住んでいる両親によって線香もあげることができない。やがて家賃が払えないほど所属事務所が行き詰った彼は、滞納を認めてもらう交換条件として、所有者(マキタスポーツ)に、アパートからただ一人立ち退かない伊関(柄本佑)を説得する役目を負わせられ、雨の降る日に会いに行く。
脚本家を目指しながら芽が出ない為AVのシナリオ書きで誤魔化している伊関は、同業者であることで栩谷と意気投合し、ある女性(実は祥子)との恋愛を語る。栩谷も同じようになりそめから同棲生活の終焉まで語り、やがて二人が同じ女性のことを話していることに気付く。
栩谷は祥子の浮気をさして真剣に咎めなかったことを後悔している。もしあの時違う態度を取っていれば彼女も桑山も死ぬことはなかったのではないか。
というお話で、最後に彼が脚本を書き直しているところがある為にこの映画は両義的な内容になった。
一般的に考えらえるのは見た目通りのお話ということ。単に自分達をモデルにした脚本を書き変え、その後祥子が現れるのは “たられば” の結果=栩谷の願望である、という理解である。却って、脚本のように人生は書き変えられることはできない、という切ない後味が残る。
もう一つは、それまで語られていたのが、実体験をモデルにしてはいても完全に脚本の中のお話であるという枠物語としての理解。しかるに、これでは作劇の面白味を感じられても、祥子が本作の主題歌「さらならの向こう側」のインストルメンタルに乗って現れ部屋の中に消えていくショットの感動が失われてしまうだろう。
このシークエンスは現在の時間軸であることを示すモノクロで撮られ、やがて過去であるカラーにシフトし、二人一緒に「さよならの向こう側」を歌うところで幕切れ。結果的に、複雑怪奇な印象を残す。
性行為場面が多くて猥雑すぎるといった世評を僕も否めない。しかし、性行為を通して人生を懸命に生きている人間を描いて来たかつてのポルノ映画やピンク映画の精神は一応ここに生きているとは思う。観客の性欲を満足させることのみが目的のアダルトビデオとは一線を画すのである。
書き直そうとして消した台詞に “ぶたないで、 私、 女優なんだから” とあるのはかつて荒井が脚色を担当した「Wの悲劇」(1984年)のセルフ・パロディーで、笑わせてくれる。3.11への思いや体制への批判精神は相変わらずと言うべし。
原作の、映画との違い。
主人公は40代後半の借金を抱えた実業家。相手は映画と同じくらいの30代後半だが、映画業界とは全く関係ない。映画の二人は荒井の分身という理解で良いだろう。
二人は同じ女性と過ごしていない。そういう接点は全くない。その意味で映画は少々やり過ぎである。祥子は十数年前に単独で死んでいる。事故死か自殺か判然としていず、主人公は葬式にちゃんと参列できたらしい。自殺であれば、彼女の死の理由は映画に近くなる。
マッシュルームでハイになる女の子が出て来るのは同じ。しかし、一人だけでなので、レズビアン場面などない。映画では背景に留まっているような彼女は小説では結構有機的な感じがする。
意外にも幕切れは同じ。しかし、脚本の書き直しというシークエンスを経ない為に印象が少し異なる。伊関の住むアパートの階段を下りたばかり主人公が階段を上る(幻想の)祥子とすれ違うのは後悔のつまったノスタルジーがベースであり、願望がそこに寄り添う。
小説「Wの悲劇」は昨日アップした読書録に記したように先日初めて読みました。入れ子構造の映画とは違う面白味がありましたね。
2023年日本映画 監督・荒井晴彦
ネタバレあり
2000年上半期芥川賞を受賞した松浦寿輝の同名小説を荒井晴彦が脚色して自ら映像に移した人間ドラマである。腐しは “くたし” と読み、「万葉集」の一首からの拝借である。
ピンク映画の監督・栩谷(くたに=綾野剛)は、長く同棲した売れない女優祥子(さとうほなみ)に、監督仲間の桑山(吉岡睦雄)と心中されて悄然とする。地方に住んでいる両親によって線香もあげることができない。やがて家賃が払えないほど所属事務所が行き詰った彼は、滞納を認めてもらう交換条件として、所有者(マキタスポーツ)に、アパートからただ一人立ち退かない伊関(柄本佑)を説得する役目を負わせられ、雨の降る日に会いに行く。
脚本家を目指しながら芽が出ない為AVのシナリオ書きで誤魔化している伊関は、同業者であることで栩谷と意気投合し、ある女性(実は祥子)との恋愛を語る。栩谷も同じようになりそめから同棲生活の終焉まで語り、やがて二人が同じ女性のことを話していることに気付く。
栩谷は祥子の浮気をさして真剣に咎めなかったことを後悔している。もしあの時違う態度を取っていれば彼女も桑山も死ぬことはなかったのではないか。
というお話で、最後に彼が脚本を書き直しているところがある為にこの映画は両義的な内容になった。
一般的に考えらえるのは見た目通りのお話ということ。単に自分達をモデルにした脚本を書き変え、その後祥子が現れるのは “たられば” の結果=栩谷の願望である、という理解である。却って、脚本のように人生は書き変えられることはできない、という切ない後味が残る。
もう一つは、それまで語られていたのが、実体験をモデルにしてはいても完全に脚本の中のお話であるという枠物語としての理解。しかるに、これでは作劇の面白味を感じられても、祥子が本作の主題歌「さらならの向こう側」のインストルメンタルに乗って現れ部屋の中に消えていくショットの感動が失われてしまうだろう。
このシークエンスは現在の時間軸であることを示すモノクロで撮られ、やがて過去であるカラーにシフトし、二人一緒に「さよならの向こう側」を歌うところで幕切れ。結果的に、複雑怪奇な印象を残す。
性行為場面が多くて猥雑すぎるといった世評を僕も否めない。しかし、性行為を通して人生を懸命に生きている人間を描いて来たかつてのポルノ映画やピンク映画の精神は一応ここに生きているとは思う。観客の性欲を満足させることのみが目的のアダルトビデオとは一線を画すのである。
書き直そうとして消した台詞に “ぶたないで、 私、 女優なんだから” とあるのはかつて荒井が脚色を担当した「Wの悲劇」(1984年)のセルフ・パロディーで、笑わせてくれる。3.11への思いや体制への批判精神は相変わらずと言うべし。
原作の、映画との違い。
主人公は40代後半の借金を抱えた実業家。相手は映画と同じくらいの30代後半だが、映画業界とは全く関係ない。映画の二人は荒井の分身という理解で良いだろう。
二人は同じ女性と過ごしていない。そういう接点は全くない。その意味で映画は少々やり過ぎである。祥子は十数年前に単独で死んでいる。事故死か自殺か判然としていず、主人公は葬式にちゃんと参列できたらしい。自殺であれば、彼女の死の理由は映画に近くなる。
マッシュルームでハイになる女の子が出て来るのは同じ。しかし、一人だけでなので、レズビアン場面などない。映画では背景に留まっているような彼女は小説では結構有機的な感じがする。
意外にも幕切れは同じ。しかし、脚本の書き直しというシークエンスを経ない為に印象が少し異なる。伊関の住むアパートの階段を下りたばかり主人公が階段を上る(幻想の)祥子とすれ違うのは後悔のつまったノスタルジーがベースであり、願望がそこに寄り添う。
小説「Wの悲劇」は昨日アップした読書録に記したように先日初めて読みました。入れ子構造の映画とは違う面白味がありましたね。
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