映画評「偶然と想像」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2021年日本映画 監督・濱口竜介
ネタバレあり
3話構成のオムニバス映画。オムニバスということもあって、濱口竜介の作品としては取り組みやすい。
第一話「秘密」。
モデル古川琴音に親友でもあるヘアメイク担当・玄理が知り合ったばかりのイケメンと意気投合したという話をする。ワンナイトのような関係にはならなかったものの、実は青年実業家であるその男・中島歩は琴音ちゃんが2年前に別れた恋人で、その話から気持ちが高ぶった彼女は事務所に殴り込みに行く。
後日まだのろけている玄理と琴音が話している喫茶店の前を偶然にも中島が通りがかる。この後琴音ちゃんの想像が駆けずり回った挙句に、カメラが突然ズームインして静かな現実に戻り、彼女は二人を残して店を後にする。後を引く思いを振り切るかのようにヒロインが最後に工事中のビルの写真を撮るのが良い。
渋川清彦の文学教授に単位を認められずにTV局への就職を棒に振った4回生甲斐翔真が、セフレの主婦学生・森郁月に、芥川賞を取った渋川教授をハニートラップにかけろの依頼する。彼女は一応その通りスマホの録音機能をオンにしてそれらしきことをする。部屋のドアを開けっ放しにするほど用心深い教授の終始冷静な態度に自分の行動を告白した彼女は、教授の依頼で音声データをメールで送ることにする。しかし、送り先を間違えた結果とんでもないことになる。
というお話が第2話「扉は開けたままで」。
こちらは半ば悲劇的だが、5年後、離婚されて出版社で校閲の仕事をしている森譲が、校閲部を廃止する出版社に勤め始めた甲斐君に再会、あれやこれやの末に実現できるかどうか甚だ怪しい話ながら、渋川元教授の出版を巡ってトライアングルを組んだら面白そうと話す。
お話全体は過激なこちらは第1話と違って想像の部分が優しい。実現したら関係者全員の為に良いと思う。
第3話「もう一度」はパラレルワールドが舞台である。
東京に住む中年独身女性・卜部房子が同窓会の為に故郷仙台を訪れる。仙台駅に向かう為に使ったエスカレーターで、高校時代の親友と思しき専業主婦・河合青葉を見つける。誘われて行った彼女の家で話し始めるうち、相手はその女性とは全く別人と判明する。
このお話のどこかパラレル・ワールドか言えば、少し前からコンピューターウィルスの為にネットが遮断されてアナログ時代に戻っているという設定なのである。その設定がお話の展開に積極的に生かされているか微妙ではありますが。
別人と判った後も互いに関心を覚えた二人は互いにその相手の振りをして会話をしてみる。
濱口監督に言われるまでもなく、人間は一人で生きられないが、彼は他者の存在に一人の人間が影響されていく様子を描くことに大きな関心があるようで、それもヒューマンではなく実存哲学的なアプローチ、とどうしても感じてしまう。本来の意味とは違うけれども、サルトルの言う【対自存在】という哲学言葉を思い浮かべるのである。
人間は社会にある限り【対他存在】だ。しかるに、人は他人を意識する(対他存在)ままでは未だ物にほかならない【即自存在】に戻ってしまう。そこで通常の大人は意識を他人に向け返して【対自存在】という段階に進む。それがとりわけこの映画では感じられる。濱口監督は、東大文化三類出身なので、こうした概念は知っているはずだ。
舞台が限定され、台詞の応酬が多いので、演劇的ではあるが、意図的な棒読みが却って映画性を感じさせる。棒読みのほうが実際に近いので、僕はこの手法を買う。
「東京物語」の笠智衆の演技を評して “棒読み” と述べた若い観客がいた。やれやれ。 口跡が映画の演技の全てでもあるまいに。舞台では口跡が頼りないのでは問題だろうが。
2021年日本映画 監督・濱口竜介
ネタバレあり
3話構成のオムニバス映画。オムニバスということもあって、濱口竜介の作品としては取り組みやすい。
第一話「秘密」。
モデル古川琴音に親友でもあるヘアメイク担当・玄理が知り合ったばかりのイケメンと意気投合したという話をする。ワンナイトのような関係にはならなかったものの、実は青年実業家であるその男・中島歩は琴音ちゃんが2年前に別れた恋人で、その話から気持ちが高ぶった彼女は事務所に殴り込みに行く。
後日まだのろけている玄理と琴音が話している喫茶店の前を偶然にも中島が通りがかる。この後琴音ちゃんの想像が駆けずり回った挙句に、カメラが突然ズームインして静かな現実に戻り、彼女は二人を残して店を後にする。後を引く思いを振り切るかのようにヒロインが最後に工事中のビルの写真を撮るのが良い。
渋川清彦の文学教授に単位を認められずにTV局への就職を棒に振った4回生甲斐翔真が、セフレの主婦学生・森郁月に、芥川賞を取った渋川教授をハニートラップにかけろの依頼する。彼女は一応その通りスマホの録音機能をオンにしてそれらしきことをする。部屋のドアを開けっ放しにするほど用心深い教授の終始冷静な態度に自分の行動を告白した彼女は、教授の依頼で音声データをメールで送ることにする。しかし、送り先を間違えた結果とんでもないことになる。
というお話が第2話「扉は開けたままで」。
こちらは半ば悲劇的だが、5年後、離婚されて出版社で校閲の仕事をしている森譲が、校閲部を廃止する出版社に勤め始めた甲斐君に再会、あれやこれやの末に実現できるかどうか甚だ怪しい話ながら、渋川元教授の出版を巡ってトライアングルを組んだら面白そうと話す。
お話全体は過激なこちらは第1話と違って想像の部分が優しい。実現したら関係者全員の為に良いと思う。
第3話「もう一度」はパラレルワールドが舞台である。
東京に住む中年独身女性・卜部房子が同窓会の為に故郷仙台を訪れる。仙台駅に向かう為に使ったエスカレーターで、高校時代の親友と思しき専業主婦・河合青葉を見つける。誘われて行った彼女の家で話し始めるうち、相手はその女性とは全く別人と判明する。
このお話のどこかパラレル・ワールドか言えば、少し前からコンピューターウィルスの為にネットが遮断されてアナログ時代に戻っているという設定なのである。その設定がお話の展開に積極的に生かされているか微妙ではありますが。
別人と判った後も互いに関心を覚えた二人は互いにその相手の振りをして会話をしてみる。
濱口監督に言われるまでもなく、人間は一人で生きられないが、彼は他者の存在に一人の人間が影響されていく様子を描くことに大きな関心があるようで、それもヒューマンではなく実存哲学的なアプローチ、とどうしても感じてしまう。本来の意味とは違うけれども、サルトルの言う【対自存在】という哲学言葉を思い浮かべるのである。
人間は社会にある限り【対他存在】だ。しかるに、人は他人を意識する(対他存在)ままでは未だ物にほかならない【即自存在】に戻ってしまう。そこで通常の大人は意識を他人に向け返して【対自存在】という段階に進む。それがとりわけこの映画では感じられる。濱口監督は、東大文化三類出身なので、こうした概念は知っているはずだ。
舞台が限定され、台詞の応酬が多いので、演劇的ではあるが、意図的な棒読みが却って映画性を感じさせる。棒読みのほうが実際に近いので、僕はこの手法を買う。
「東京物語」の笠智衆の演技を評して “棒読み” と述べた若い観客がいた。やれやれ。 口跡が映画の演技の全てでもあるまいに。舞台では口跡が頼りないのでは問題だろうが。
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