映画評「彩られし女性」
☆☆★(5点/10点満点中)
1934年アメリカ映画 監督リチャード・ボレスワフスキー
ネタバレあり
サマセット・モームをスター・システム時代のハリウッドはうまく映画化することができない。
尤も、それはモームに限らず、純文学は尽くメロドラマ化されてしまい、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を Love という題名で映画化した作品(邦題は原作通り)など、 噴飯ものだ。草葉のトルストイ御大も吃驚して墓場から飛び出てきそうなハッピー・エンドになっていた。
その映画に主演したのがグレタ・ガルボ(彼女は二回「アンナ・カレーニナ」の映画版に主演している)で、モームを原作とする本作でもヒロインを演ずる。
オーストリアの医者の娘で、父親の弟子ハーバート・マーシャルと結婚し、コレラが広まりつつある中国に同行する。大いに惚れ込んで結婚したわけでもないので、夫が医療に夢中の余り自分を顧みないことに不満を覚え、積極的に迫って来る領事館員ジョージ・ブレントによろめいてしまう。
二人の関係を知った夫君は、ブレントが夫人と別れるなら自分も離婚に応じると言うが、肝心のブレントは保身的なことを言い、彼女は失望、結局コレラ源の地方に向う夫に同行し、看護婦として奮闘する。
が、滅菌の為に家を焼かれたことを恨む村人に夫が刺されるという事件が起きる。夫の姿に既に感銘受けていた彼女は必死に生還を祈り、真の愛情が芽生えた時夫は生還する。
モームの狙いは映画版では不明だが、少なくとも、男性二人が、程度の差こそあれ、女性に対しエゴイズムを示す場面があるのに、紆余曲折の末そんなことはまるでなかったかのように、愛情の思いに下るという典型的に甘いあま~いメロドラマとして終わってしまう。
戦前では仕方がないと仰る方もいらっしゃるだろうが、実は戦前のハリウッド映画は戦後暫くの映画より遥かにフェミニズム寄りの映画が多い・・・というのが、最近色々と戦前のハリウッド映画を観てきた印象なのである。
神秘を売り物にしてきたグレタ・ガルボもこんな役ではつまらなすぎる。オーストリア人役のせいか、あるいは北欧出身者ならではのせいか、かなり巻き舌の発音があったのが面白かった。
本作のように戦前の題名に古語を使うのは良いとして、現代語をすら破壊しまくっている現代人が気取って古語を使うのを聞くと、苦笑する。例えば、スポーツ番組では “選ばれし者”、クイズ番組等では ”次なる出場者” などと言う。 “更なる” と違って “次なる” という形容動詞はこの世に存在せず、名詞 “次” と “である” を意味する古語 “なり” をくっつけた一種の造語。 全く変な時代である。 人間を形容する時に多いようですな。 そう言えば、 紹介する時に “なります” を使う人が異様なペースで増え続けている。元来上の古語”なり”から来ている ”なる” の丁寧語で文法的には間違いないが、この場合の “なる” は “相当する” の意味と解釈するのが一番正確と思う。現在完了を使わない実況アナの場合、これが “変化” を意味する “なる” と混在して、 どちらの意味で使っているのか、 使っている本人も全く解っていない場合が多そうである。
1934年アメリカ映画 監督リチャード・ボレスワフスキー
ネタバレあり
サマセット・モームをスター・システム時代のハリウッドはうまく映画化することができない。
尤も、それはモームに限らず、純文学は尽くメロドラマ化されてしまい、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を Love という題名で映画化した作品(邦題は原作通り)など、 噴飯ものだ。草葉のトルストイ御大も吃驚して墓場から飛び出てきそうなハッピー・エンドになっていた。
その映画に主演したのがグレタ・ガルボ(彼女は二回「アンナ・カレーニナ」の映画版に主演している)で、モームを原作とする本作でもヒロインを演ずる。
オーストリアの医者の娘で、父親の弟子ハーバート・マーシャルと結婚し、コレラが広まりつつある中国に同行する。大いに惚れ込んで結婚したわけでもないので、夫が医療に夢中の余り自分を顧みないことに不満を覚え、積極的に迫って来る領事館員ジョージ・ブレントによろめいてしまう。
二人の関係を知った夫君は、ブレントが夫人と別れるなら自分も離婚に応じると言うが、肝心のブレントは保身的なことを言い、彼女は失望、結局コレラ源の地方に向う夫に同行し、看護婦として奮闘する。
が、滅菌の為に家を焼かれたことを恨む村人に夫が刺されるという事件が起きる。夫の姿に既に感銘受けていた彼女は必死に生還を祈り、真の愛情が芽生えた時夫は生還する。
モームの狙いは映画版では不明だが、少なくとも、男性二人が、程度の差こそあれ、女性に対しエゴイズムを示す場面があるのに、紆余曲折の末そんなことはまるでなかったかのように、愛情の思いに下るという典型的に甘いあま~いメロドラマとして終わってしまう。
戦前では仕方がないと仰る方もいらっしゃるだろうが、実は戦前のハリウッド映画は戦後暫くの映画より遥かにフェミニズム寄りの映画が多い・・・というのが、最近色々と戦前のハリウッド映画を観てきた印象なのである。
神秘を売り物にしてきたグレタ・ガルボもこんな役ではつまらなすぎる。オーストリア人役のせいか、あるいは北欧出身者ならではのせいか、かなり巻き舌の発音があったのが面白かった。
本作のように戦前の題名に古語を使うのは良いとして、現代語をすら破壊しまくっている現代人が気取って古語を使うのを聞くと、苦笑する。例えば、スポーツ番組では “選ばれし者”、クイズ番組等では ”次なる出場者” などと言う。 “更なる” と違って “次なる” という形容動詞はこの世に存在せず、名詞 “次” と “である” を意味する古語 “なり” をくっつけた一種の造語。 全く変な時代である。 人間を形容する時に多いようですな。 そう言えば、 紹介する時に “なります” を使う人が異様なペースで増え続けている。元来上の古語”なり”から来ている ”なる” の丁寧語で文法的には間違いないが、この場合の “なる” は “相当する” の意味と解釈するのが一番正確と思う。現在完了を使わない実況アナの場合、これが “変化” を意味する “なる” と混在して、 どちらの意味で使っているのか、 使っている本人も全く解っていない場合が多そうである。
この記事へのコメント
>実は戦前のハリウッド映画は戦後暫くの映画より遥かにフェミニズム寄りの映画が多い・・・
これに関して何かのヒントになるかもしれない論文がありまして…
「ハリウッド映画の女性観 アメリカンミソジニーは克服されたか」
小林憲夫 駒沢女子大学 研究紀要 第18号 2011
リンクをはれなくてすいません。検索したらこのタイトルで出てくるのですが今でもダウンロード出来るかどうかわかりません。
私は初読時に面白かったのでゆっくり読もうと10ページくらいコピーして持っていますが、内田樹の「映画の構造分析」をベースにして書かれています。
お時間あれば検索してみて下さい。
>「ハリウッド映画の女性観 アメリカンミソジニーは克服されたか」
ご紹介有難うございました。
読めましたよ。面白い。
僕の観て来た経験から知る限り、ハリウッド初期(サイレント後期)からトーキー初期には、この論文からも僅かに伺えるように、女性映画(つまり僕の言うフェミニズム寄りの映画)が結構作られていました。そして、この論文の示す通り、自立する女性は尽くハッピー・エンドを迎えない。
女性映画が再び隆盛するのは、ニューシネマが終わった、と言うよりそのスタイルが定着してドラマでは当たり前になった1970年代後半から色々と作られ始め、この辺りの女性映画では、ハッピーでも不幸でもないという曖昧な結末を持つものが多かったように思います。
当時【女性映画】と言うだけで怒るフェミニスト批評家が結構いましたね。 “それくらい許せよ”と僕は思いましたが。
内田樹繋がりで最近見つけたものがあります。
内田先生が伊丹十三賞を受賞した折の講演会のスピーチなんですが、これが面白かったです。
主に「ヨーロッパ退屈日記」を取り上げて、なんとあの本の内容から伊丹十三の戦後批判を読み取るという、凄技を披露しておられます。特に「北京の55日」なんて「確かにそうかもしれない」と思ってしまいました。
これも伊丹十三、内田樹で出てきますので読んでみて下さい。
私は何十年ぶりかで「ヨーロッパ退屈日記」を読み返して、つくづく書かれていない事を読み取る能力の欠如に情けない思いをしました。でもまあ初読はハタチそこそこでしたからね。
最近「北京の55日」のテーマ曲を無意識に鼻歌のように歌っています。
映画の記憶はありませんがテーマソングは流行りましたね。
>「ヨーロッパ退屈日記」を読み返して、つくづく書かれていない事を読み取る能力の欠如に情けない思いをしました。
仕方ないですよ^^
内田樹ご本人も(当初はそう読めていななかったと)同じようなことを仰っているではないですか!
「ヨーロッパ退屈日記」は全く知りませんでした。
この辺りに年齢差が出ますね。本が発表された頃は小学校に上がるかどうか、5年後でも中学になるかどうかですからね。
図書館にありましたので、読みます。
江藤淳のGHQによる情報統制の話が出てきますが、姉から渡されたパンフレット・レベルの本「日本人を狂わせた洗脳工作(WGIP)」が彼の研究を踏襲し、現在の左翼やリベラルの活動に敷衍して語っています。
しかし、実際には寧ろ逆で、WGIPに影響を受けているのは自民党ですよ。沖縄の基地に関して闘っている人や日米地位協定に批判的な人こそ本来の保守であって、結果的にリベラルと言われている方が保守であるという逆転現象が起こっていますね。このパンフレット程度の本から、そこまで読める人が本物です。
従って、この本は所謂嫌韓本・嫌中本の範疇から殆ど出ていない。これを読むなら江藤淳を読んだ方が良いです。
戦中派の心境について思ったのは、先日読み終えたばかりの京極夏彦「姑獲鳥の夏」に出て来る、現実社会における仮想現実。
戦中派の人は、戦前の記憶をベースにしている時は戦後の現在を仮想現実、現在(終戦後)の自由な社会をベースにすると戦前の経験を仮想現実だったと思う、という気がしてきました。
>最近「北京の55日」のテーマ曲を無意識に鼻歌のように歌っています。
>映画の記憶はありませんがテーマソングは流行りましたね。
良いですね!
高校の時にTVの前後編で観ました。僕も同じで内容など全く憶えていませんが、伊丹十三が出て来る広間や、フローラ・ロブスン演ずる西太后の映像が蘇ります。
テーマ曲はヒットしてブラザース・フォー版が大当たりしましたね(当然リアルタイムでは知りませんが、僕が物心ついた後でもラジオのリクエストでよく登場しました)。
>仕方ないですよ^^
ですよね… 「ロードジム」に関する記述は記憶にあるのですが、「北京…」のほうは全く憶えていませんでしたが何だか酷い映画だったようですね。
伊丹十三は父伊丹万作が戦後亡くなるまで京都育ちだったので「細雪」で流暢でねちこい関西弁を披露していましたね。 監督業も良いけれど、今更ですがもっと役者さんとしても観たかったです。
> 伊丹十三は父伊丹万作が戦後亡くなるまで京都育ちだったので「細雪」で流暢でねちこい関西弁を披露していましたね。
たまたま昨日(つまりコメントを頂いた当日)の映画評で、映画における方言の在り方について一般論を書きましたが、ムード醸成という意味で正確な方言が求められるケースもあり、「細雪」などはその類でしょうね。
>監督業も良いけれど、今更ですがもっと役者さんとしても観たかったです。
そうですね。
「もう頬づえはつかない」など、飄々として実に面白かった。
「細雪」は四姉妹の女優陣も石坂浩二、伊丹十三も台詞回しが上手いんですね。
関西弁と言ってもこの映画のような舟場言葉からディープサウスまで色々ありますが、「細雪」は聞いていて違和感が全くないですね。着物を着た時の所作も板について綺麗です。こういうのを今の女優さん達に望むのはもう無理ですね。
(というか監督自体がそういう昔の事がわからないんでしょうね…昭和は遠くなりにけりです)
ところで仰っている本は関野通夫という人の著書ですか?
Amazonにありました。 色々あるんですね。
“真の保守” って西部邁のようなスタンスの人のことでしょうか?
恥ずかしながらこの辺のことには非常に疎いのです。
最近ちょっと興味が出てきて、沢木耕太郎の「テロルの決算」を読んだところです。
>「細雪」は聞いていて違和感が全くないですね。着物を着た時の所作も板について綺麗です。
市川崑はドライなタッチの監督ですが、かの映画での、(お涙頂戴などと違った意味での)ウェットなタッチが見事でしたねえ。
「細雪」のこれ以上の映画化は無理と思います。
>ところで仰っている本は関野通夫という人の著書ですか?
そうです。本田技研の幹部ですね。
沖縄の基地の問題とか原発反対のデモは在日朝鮮韓国人や中国人が先導していると思い込んでいる連中が好きなタイプの本です。
>“真の保守” って西部邁のようなスタンスの人のことでしょうか?
そう言って良いのではないでしょうか。
陋習とそうでないものを峻別できない人は保守ではない、と安倍元首相を指して言っていますよ。
>恥ずかしながらこの辺のことには非常に疎いのです。
僕も実はノンポリ。一時期、映画評の太字コメントで政治的言及が多かったのですが、安倍政権が余りにデタラメだったから。彼の退任以降殆どなくなりました。岸田にはそんな文句を言う程の面白味もありませんや(笑)
>最近ちょっと興味が出てきて、沢木耕太郎の「テロルの決算」を読んだところです。
政治の本は売らんかなのものが多いですが、信用できる本のようですね。