映画評「セルロイド・クローゼット」

☆☆☆(6点/10点満点中)
1995年アメリカ=フランス=イギリス=ドイツ合作映画 監督ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン
ネタバレあり

勘の良い人なら、この題名からある程度内容が予想できるかもしれない。
 セルロイドはフィルム即ち映画、クローゼットはカミング・アウトしていない同性愛(者)のことである。従って、この映画では映画がいかに同性愛を隠して来たかという意味と理解できるわけで、同性愛に関してアメリカ映画界主にハリウッドがどのような態度を取って来たかを検証する映画史ドキュメンタリーである。

出演者の年齢を見るうちにこれは最近作られた映画ではないだろうと思ってパンフレットを見ると、1995年とある。なるほどと思って観続けるうちにシャーリー・マクレーン(同性愛者をかなり正面から扱った初期の作品「噂の二人」に主演)が出て来て、 “おやおや、こりゃ観ているかもしれんなあ” と思ったら案の定鑑賞済みでした。多分前世紀に観たのだろう。

映画はトーキー初期まで案外はっきりと登場人物の同性愛的傾向を画面で見せていた。アメリカ映画が性に関して露骨な表現が見られなくなったのは、キリスト教原理主義的な映画界の自主規制ヘイズ・コードのせいである。
 1934年から1968年まで施行されていて、1968年がニュー・シネマ元年と言われるのはその為だが、実際には1967年に暴力の面で明らかにコードを無視した「俺たちに明日はない」が作られている。ニュー・シネマの嚆矢とも言われる所以だ。本作では性的な表現に限ってヘイズ・コードを紹介しているが、実際にはもっと幅広く規制したわけである。

しかし、映画人はヘイズ・コードをうまく乗り越えるべくそれなりに頑張ったわけだが、1959年に「去年の夏突然に」で同性愛を当時の感覚ではかなり露骨に扱ったことが評判になった。同時にオブラートで包んで表現するしかなかったのも事実で、為にわけの解らない作品になったと本作の中で紹介されている。
 同じ原作者テネシー・ウィリアムズの映画化「熱いトタン屋根の猫」(1958年)では同性愛を感じさせる描写はほぼなかった。それを知らずに観た1回目は勿論、知った後観た2回目もまず感じられないように作られていると感じた。尤も、原作も戯曲版の改訂版では映画に近いお話の進行をするので、仕方のない面もある。

映画ファンとしてはそういうこと以上に、「ベン・ハー」(1959年)の主人公とメッサラとの関係が面白かった。それはメッサラを演じたスティーヴン・ボイドだけに知らされたそうである。
 「理由なき反抗」(1955年)のサル・ミネオなどは薄々そうかもしれないと思って観たものだが、同時代的にそう思った異性愛者は少ないだろう。
 1970年に「真夜中のパーティー」が遂に同性愛者の立場そのものをテーマに作られ、79年にゲイ社会に迫った刑事映画「クルージング」が作られ、どちらもウィリアム・フリードキンが監督をしているというのが面白い。

クエンティン・クリスプという脚本家が(男性)異性愛者が男性の同性愛者映画を観たがらない理由を的確に分析していた。異性愛者は同性愛者の性行為が苦手であり、それは自分に及ぶことを想像してしまうからと言うのだが、僕も概ねそう思う。実際僕も同性愛者の映画を観るのは何とも思わないが、性行為があるのはなるべく観たくないのである。
 反して(クリスプらも言うように)女性のそれを見るのには抵抗がない若しくは少ない。これは論ずるまでもないだろう。

映画と性という関係を文化史的な角度から綴ってなかなか面白い。僕のように男性同性愛映画が苦手と言う人も、映画好きなら楽しめるのではないかと思う。

僕らが同性愛を知った頃、世間では男性のそれをホモ(ゲイという言葉も使われてはいたが、ゲイはおかまのイメージが強かった)、女性のそれをレズ(レズビアン)と呼んでいた。しかし、その後男女差別はいかんということで(?)ゲイに統一されていた時代を僕は憶えている。1980年代だろうか、確かに女性同性愛者たちも自分たちをゲイと呼称していた。同性愛そのものをゲイと総称したということかもしれない。その頃の【スクリーン】誌を調べればこの辺は確認できるが、面倒臭い。やがて、多様性の観点から再びレズビアンが復活し、男性同性愛者の呼称としてゲイがホモに完全に置き換わった(ホモは侮蔑的用語として残る)。不思議なことに、ネットを調べても、女性同性愛者が自分たちをゲイと言っていた時代がこの間まであったことを記しているサイトがない。

この記事へのコメント

2024年09月07日 11:09
もうこういうこと言うと怒られるんでしょうが、年寄りの感想として言わせてもらうと、たんじゅんに異性愛者からすると同性愛者同士のラブシーンは気持ち悪く見えるというのがあって、それで忌避されるのでしょうね。露骨にそういう場面を出さなければ、またちがうのでしょうが。

同性愛者から見ると異性愛者のラブシーンも同様に不快な眺めになりそうです、でも、異性愛者が多数派なので押し切られてしまう、それが差別だ、というのはありそう、すると、ヘイズコードのような形で露骨な性描写を避けるというのは摩擦を避ける効果はあったのでしょうか(ただし、ヘイズコードは同性愛自体を出せないものにしてしまっていたのですかね)

英国の映画は、昔から、同性愛者みたいなのをうまく出してきますね、匂わせるような描きかたですが、脇役で。ちょっと、コミカルな薬味みたいなかんじで。それも、今は差別的扱いになるのかもしれません。
オカピー
2024年09月07日 22:44
nesskoさん、こんにちは。

>露骨にそういう場面を出さなければ、またちがうのでしょうが。

大分違うと思いますよ。
肉体の接触が少ないにこしたことはないデス。

>ヘイズコードは同性愛自体を出せないものにしてしまっていたのですかね

同性愛はほぼ存在しないものとして扱っていたと思いますよ。
でも、映画会社も唯々諾々とするだけでは能がないと、陽気(gay)という単語でそれを匂わすようなことはしたらしい。
キスも極めて性的なものはご法度(ただし基準が曖昧)で、それを承知でヒッチコックは「汚名」でなが~いキス・シーンを取りました。ヒッチコックは性的な拘りが結構あった人ですからね。

>英国の映画は、昔から、同性愛者みたいなのをうまく出してきますね

アメリカほど原理主義者が強くなく、ヘイズ・コードのようなものがなかったので、できたところがありますね。

ヒッチコックの戦前、英国時代のトーキー映画「殺人!」に殺人犯についてhalf-casteという単語が出て来ます。彼はhalf-casteであることを知られたくなくて殺人を起こします。これを混血や不能者と、複数あるソフトが訳していますが、実は間違いでして、ヒッチコックはこの映画では同性愛者の隠語として使っています。当時の英国で同性愛者と知られることは文字通り致命的でした。