映画評「水は海に向かって流れる」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2022年日本映画 監督・前田哲
ネタバレあり
純真そのものだった「海街diary」の頃と違って、最近の日本映画界は、広瀬すずを豪放でつかみどころのない妙齢美人というキャラクターに固定しつつあるように思う。この間観た「キリエのうた」は正にそのもので、本作は寧ろクール・ビューティーだが何をしでかすか解らず豪快のところがあって、部分的に重なるところがある。
通学に便利ということで叔父さん高良健吾を頼ってやって来た新米高校生・大西利空は、叔父さんの代りに自分より10歳ほど年上と見られる美人すずちゃんが現れたのでびっくり。訪れた家は叔父さんの家ではなく、すずちゃんや女装の占い師・戸塚純貴、大学教授の成瀬勝久がルームシェアする戸建てである。
暫くして少年は10年前に自分の父親・北村有起哉とすずちゃんの母親・坂井真紀がW不倫した関係であることを知る。すずちゃんの不幸は、彼の父が実家に戻ったのに対し、母が自分を捨てて家を出たことである。為に彼女は恋などしないと自らに誓っている。彼女に影響されまくる少年は自分もそうすると言う。戸塚の妹の當真あみは同級生の大西君に恋しているが、彼は全くそれに気づかない鈍感ぶりである。
不倫相手が家に戻らず娘が傷ついていると知った父親は罪悪感を覚え、探偵に居場所調査を依頼、その結果を持って彼女と大西君はその家に向かう。母親と再会した彼女は冷たく突き放す。母親の心の鎮静の為に協力するのは真っ平御免という心情だ。少年は既に彼女に同化している。
かくして二人はシェアハウスに戻った後、すずちゃんは家を出ていく決心をする。それを知った少年は授業を抜け出して彼女を追いかける。
という、やや変則的なロマンスで、ヒロインの立場に立てば大西君が池に投げ込まれた石、大西君の立場に立ては彼女が石で、その波紋が互いの人生に影響を与えていく。つまり、二人とも主人公と見て良いお話。尤もロマンスでは一方が主人公というケースなどまずない。だからロマンスものでW主演などという言葉を聞くと僕は呆れてしまうのである。
それはともかく、ヒロインを豪快と言ったが、実際には些事に拘る余り感情を表に出せなくなっているだけで、彼女の豪快さはただ大盛り付けの料理のみに発揮される。やけ食いにすぎない。
現在の自由主義の社会にあっては不倫など大した問題ではない。配偶者にとって問題なのは、夫なり妻なりが不倫相手に対して本気であるかどうかである。出来心みたいな不倫(所謂浮気)でも問題となるのは、本作のように子供たちにとってであろう。子供はかくも傷つきやすい。
本作(原作は田島列島のコミック)の不倫感は古風であり、親が絶対的な悪者扱いになっている。僕は個人的に浮気などするタイプではなく、子供の傷つきやすい心も理解するが、それでも本作の子供たちの態度はきつすぎると思う。この作品ではそこまでは解らないが、不倫をする場合、少なからぬケースで配偶者にも責任がある可能性を否定できない。子供にそれを解れというのは無理でありましょうな。
その意味で16歳で時間を止めてしまったヒロインは今でも高校生のまま。しかるに、幕切れでそれも終わりを遂げ、いつかは親の気持ちも理解できるようになるだろう。
大西君が教室を出る時に見せる片想いの當真あみの表情の清々しさが鮮烈至極である。彼女は自分の恋を諦め、相手を応援する気になっている。三人のうち一番早く大人になったのは彼女ではないか。
どちらか言うと実年齢より年上の役を演ずる広瀬すずに対し厳しめの評価が目立つ。潜在能力を生かしきれていないといった主旨で、悪意は少ないが、僕は悪くないと思う。
前田哲の進行ぶりもこれまで観た中で一番良いかもしれない。
本文で使った言葉の補助としてこの太字コメントを用意したが、結局本文を変えたので変な具合であるが、そのまま続行。外国の実況では完了した行為に対して Satoh passes the ball to Suzuki と言うのが常識。最近日本の実況でも “佐藤がボールを鈴木に渡します” と言うアナ氏ばかりになったが、 これは直訳としても間違いである。 英語で has passed の代りに passes を使っても違和感も混乱も生じないが、現在日本語の動詞(行為=変化を示すもの)原形は未来を示すので違和感を生む。混乱するのは完了と現在の間ではなく、単発行為と反復・習慣・性格との区別で起きる。過去も未来も混在する新聞では、日本語の場合見出しに年表や英語の新聞のように無条件には歴史的現在を使えず、多く体言止めにする。そこにある新聞をご覧なさい。が、不思議なことに、“佐藤が鈴木にボールを渡す” といった具合に丁寧語でなくすると、違和感が激減する。僕もまだ分析し切れていないが、多分アナ氏の独り言のように感じられて説明調でなくなるからではないか。 我々も詠嘆して “ここでこんなことをするか!” と、 反語の形で動詞原形を使う場合がありますな。
2022年日本映画 監督・前田哲
ネタバレあり
純真そのものだった「海街diary」の頃と違って、最近の日本映画界は、広瀬すずを豪放でつかみどころのない妙齢美人というキャラクターに固定しつつあるように思う。この間観た「キリエのうた」は正にそのもので、本作は寧ろクール・ビューティーだが何をしでかすか解らず豪快のところがあって、部分的に重なるところがある。
通学に便利ということで叔父さん高良健吾を頼ってやって来た新米高校生・大西利空は、叔父さんの代りに自分より10歳ほど年上と見られる美人すずちゃんが現れたのでびっくり。訪れた家は叔父さんの家ではなく、すずちゃんや女装の占い師・戸塚純貴、大学教授の成瀬勝久がルームシェアする戸建てである。
暫くして少年は10年前に自分の父親・北村有起哉とすずちゃんの母親・坂井真紀がW不倫した関係であることを知る。すずちゃんの不幸は、彼の父が実家に戻ったのに対し、母が自分を捨てて家を出たことである。為に彼女は恋などしないと自らに誓っている。彼女に影響されまくる少年は自分もそうすると言う。戸塚の妹の當真あみは同級生の大西君に恋しているが、彼は全くそれに気づかない鈍感ぶりである。
不倫相手が家に戻らず娘が傷ついていると知った父親は罪悪感を覚え、探偵に居場所調査を依頼、その結果を持って彼女と大西君はその家に向かう。母親と再会した彼女は冷たく突き放す。母親の心の鎮静の為に協力するのは真っ平御免という心情だ。少年は既に彼女に同化している。
かくして二人はシェアハウスに戻った後、すずちゃんは家を出ていく決心をする。それを知った少年は授業を抜け出して彼女を追いかける。
という、やや変則的なロマンスで、ヒロインの立場に立てば大西君が池に投げ込まれた石、大西君の立場に立ては彼女が石で、その波紋が互いの人生に影響を与えていく。つまり、二人とも主人公と見て良いお話。尤もロマンスでは一方が主人公というケースなどまずない。だからロマンスものでW主演などという言葉を聞くと僕は呆れてしまうのである。
それはともかく、ヒロインを豪快と言ったが、実際には些事に拘る余り感情を表に出せなくなっているだけで、彼女の豪快さはただ大盛り付けの料理のみに発揮される。やけ食いにすぎない。
現在の自由主義の社会にあっては不倫など大した問題ではない。配偶者にとって問題なのは、夫なり妻なりが不倫相手に対して本気であるかどうかである。出来心みたいな不倫(所謂浮気)でも問題となるのは、本作のように子供たちにとってであろう。子供はかくも傷つきやすい。
本作(原作は田島列島のコミック)の不倫感は古風であり、親が絶対的な悪者扱いになっている。僕は個人的に浮気などするタイプではなく、子供の傷つきやすい心も理解するが、それでも本作の子供たちの態度はきつすぎると思う。この作品ではそこまでは解らないが、不倫をする場合、少なからぬケースで配偶者にも責任がある可能性を否定できない。子供にそれを解れというのは無理でありましょうな。
その意味で16歳で時間を止めてしまったヒロインは今でも高校生のまま。しかるに、幕切れでそれも終わりを遂げ、いつかは親の気持ちも理解できるようになるだろう。
大西君が教室を出る時に見せる片想いの當真あみの表情の清々しさが鮮烈至極である。彼女は自分の恋を諦め、相手を応援する気になっている。三人のうち一番早く大人になったのは彼女ではないか。
どちらか言うと実年齢より年上の役を演ずる広瀬すずに対し厳しめの評価が目立つ。潜在能力を生かしきれていないといった主旨で、悪意は少ないが、僕は悪くないと思う。
前田哲の進行ぶりもこれまで観た中で一番良いかもしれない。
本文で使った言葉の補助としてこの太字コメントを用意したが、結局本文を変えたので変な具合であるが、そのまま続行。外国の実況では完了した行為に対して Satoh passes the ball to Suzuki と言うのが常識。最近日本の実況でも “佐藤がボールを鈴木に渡します” と言うアナ氏ばかりになったが、 これは直訳としても間違いである。 英語で has passed の代りに passes を使っても違和感も混乱も生じないが、現在日本語の動詞(行為=変化を示すもの)原形は未来を示すので違和感を生む。混乱するのは完了と現在の間ではなく、単発行為と反復・習慣・性格との区別で起きる。過去も未来も混在する新聞では、日本語の場合見出しに年表や英語の新聞のように無条件には歴史的現在を使えず、多く体言止めにする。そこにある新聞をご覧なさい。が、不思議なことに、“佐藤が鈴木にボールを渡す” といった具合に丁寧語でなくすると、違和感が激減する。僕もまだ分析し切れていないが、多分アナ氏の独り言のように感じられて説明調でなくなるからではないか。 我々も詠嘆して “ここでこんなことをするか!” と、 反語の形で動詞原形を使う場合がありますな。
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