映画評「千夜、一夜」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2022年日本映画 監督・久保田直
ネタバレあり
特定失踪者をヒントにしながら、社会派ではなく、純文学にしたところが欧州映画的で興味深い。しかし、一回観ただけの鑑賞者を置いてきぼりにする、即ち一人合点的なところがないわけではない。
離島という設定であるが、ロケした佐渡島に実在する店がそのまま名前入りで出て来るのだから、佐渡で良いと思う。
1980年代に行方くらました夫を30年も待つ漁師の妻・田中裕子が、2年前に夫が行方不明になった看護婦・尾野真千子に訪問され、その経験と知識を生かしてお手伝いをすることになる。
おいおい判ることには、看護婦の目的は彼女のように夫が帰って来るのを待つのではなく、けりを付けることにあるらしい。特定失踪者の申請をし、その行為を材料に離婚を目指すのである。実際に看護師の後輩・山中崇と昵懇の仲になっている。
しかし、田中裕子は旅先(恐らく新潟県本土)で彼女の夫・安藤政信を発見、真千子嬢が新たな恋人を持ったことを知りつつ、連れ帰る。
この映画は何故かここから非常に曖昧でかなり晦渋になる。ここがとりわけ冒頭で一人合点と言った部分である。
細君に追い出された安藤が田中裕子のところへやって来る。一通り話した後、安藤は、隣の寝室で彼女が一人で対話をしているのを聞く。そこへ入り込んだ彼を彼女は夫と思って会話をし抱きしめ合う。
ここが解りにくい。夢遊病という説があり、これは確かにそうかもしれない。話をする夢遊病というのは聞いたことがないが。自分を夫と思う彼女に対し否定もしないで話をする彼もまた相手を、歓迎してくれなかった自分の妻の代りに、しかし自分の妻のように扱って話している。
これが僕の解釈だが、覚醒している昼間でも実際には夢の中にいる彼女は、それ故に子供の時から求愛して来る漁師ダンカンの愛情を受け入れることはない。
ダンカン扮する漁師に対して多くの鑑賞者が嫌悪感を抱くようだが、ヒロインが夢の中にいなければ結ばれても不思議ではない二人なのではないか。
“待つ” がテーマで、 二人の女性を出すことで対照的な人生観が描出されるが、 尾野真千子の看護婦がヒロインに “死んだと思っているから、 待っていられる” と言うのは案外真実を穿っているような気もする。ヒロインの “帰ってこない理由なんかないと思ってたけど帰ってくる理由もないのかもしれない” という言葉も実に重い。待つ人の気持ちと出て行った人間の気持ちの間に彼女は彷徨う。
彼女はいつからかいつも夢の中に住んでいるのだろう。これが悲劇なのだ、と思う。
特定失踪者の場合はともかく、出て行った人間やダンカンのような男を身勝手とする意見に僕は抵抗がある。人間は弱い生き物であるし、だからこそ悪くても反面教師として見るべきであろう。
死者を含めて、“去る” が通奏低音ですかな。
2022年日本映画 監督・久保田直
ネタバレあり
特定失踪者をヒントにしながら、社会派ではなく、純文学にしたところが欧州映画的で興味深い。しかし、一回観ただけの鑑賞者を置いてきぼりにする、即ち一人合点的なところがないわけではない。
離島という設定であるが、ロケした佐渡島に実在する店がそのまま名前入りで出て来るのだから、佐渡で良いと思う。
1980年代に行方くらました夫を30年も待つ漁師の妻・田中裕子が、2年前に夫が行方不明になった看護婦・尾野真千子に訪問され、その経験と知識を生かしてお手伝いをすることになる。
おいおい判ることには、看護婦の目的は彼女のように夫が帰って来るのを待つのではなく、けりを付けることにあるらしい。特定失踪者の申請をし、その行為を材料に離婚を目指すのである。実際に看護師の後輩・山中崇と昵懇の仲になっている。
しかし、田中裕子は旅先(恐らく新潟県本土)で彼女の夫・安藤政信を発見、真千子嬢が新たな恋人を持ったことを知りつつ、連れ帰る。
この映画は何故かここから非常に曖昧でかなり晦渋になる。ここがとりわけ冒頭で一人合点と言った部分である。
細君に追い出された安藤が田中裕子のところへやって来る。一通り話した後、安藤は、隣の寝室で彼女が一人で対話をしているのを聞く。そこへ入り込んだ彼を彼女は夫と思って会話をし抱きしめ合う。
ここが解りにくい。夢遊病という説があり、これは確かにそうかもしれない。話をする夢遊病というのは聞いたことがないが。自分を夫と思う彼女に対し否定もしないで話をする彼もまた相手を、歓迎してくれなかった自分の妻の代りに、しかし自分の妻のように扱って話している。
これが僕の解釈だが、覚醒している昼間でも実際には夢の中にいる彼女は、それ故に子供の時から求愛して来る漁師ダンカンの愛情を受け入れることはない。
ダンカン扮する漁師に対して多くの鑑賞者が嫌悪感を抱くようだが、ヒロインが夢の中にいなければ結ばれても不思議ではない二人なのではないか。
“待つ” がテーマで、 二人の女性を出すことで対照的な人生観が描出されるが、 尾野真千子の看護婦がヒロインに “死んだと思っているから、 待っていられる” と言うのは案外真実を穿っているような気もする。ヒロインの “帰ってこない理由なんかないと思ってたけど帰ってくる理由もないのかもしれない” という言葉も実に重い。待つ人の気持ちと出て行った人間の気持ちの間に彼女は彷徨う。
彼女はいつからかいつも夢の中に住んでいるのだろう。これが悲劇なのだ、と思う。
特定失踪者の場合はともかく、出て行った人間やダンカンのような男を身勝手とする意見に僕は抵抗がある。人間は弱い生き物であるし、だからこそ悪くても反面教師として見るべきであろう。
死者を含めて、“去る” が通奏低音ですかな。
この記事へのコメント
これ、変なタイトルですね。文学性を狙っているとしたら外してません?
今時の邦画にはめったなことではそそられませんが、役者贔屓で観てみたくなりました。
>特定失踪者をヒントにしながら、社会派ではなく、純文学にしたところが欧州映画的で興味深い。
ポール・オースターの「ニューヨーク三部作を読む予定」と書いておられた記憶があるのですが、「幽霊たち」はもうお読みになりましたか?
まだこれからなら、もうこれ以上書かないほうがいいですね。
思わせぶりですいません。
>これ、変なタイトルですね。文学性を狙っているとしたら外してません?
内容から推して、一日千秋と十年一日を併せた着想なのかもしれません。
>ポール・オースターの「ニューヨーク三部作を読む予定」と書いておられた記憶があるのですが、「幽霊たち」はもうお読みになりましたか?
よくご記憶で^^
いや、まだです。
順番通りに読まなくても良いですか?
人様の言った事は覚えているのに、自分は本作をUNEXTの見たいリストに入れていたのをすっかり忘れていました。
>隣の寝室で彼女が一人で対話をしている
ここが解りにくい。夢遊病という説があり
ここがわからないという人はある意味幸せ者です。
私は身につまされて泣きそうでした。この映画のように声に出したことはありませんが心の中で居なくなった人に話しかけることはよくあります。
特に夜・・・
「みんな肝心の事を話さずにいなくなってしまう」という田中裕子の言葉が重かったです。ほんとにそうなんです。だからこちらに残された者は一人語りをしてしまう・・・
私は喪失感とどう向き合うかがテーマだと感じました。
「幽霊たち」のなかにホーソーンの「ウェイクフィールド」が出てくるので
思い出した次第です。
>ここがわからないという人はある意味幸せ者です。
ヒロインの心情が解らないというより、
最近邦画を観る時に字幕をONにしてみるのですが、
独り言なら問題ないですが、
一つは通常の字体、一つは斜体(だったと思う、あるいは括弧付きだったか)で示され、対話している形になっていまして・・・
突然こんなのが出てきても解りませんよ。
映画サイトでは夜になると発狂するのかと思った人が散見されますし、作者がどういう設定をしたのか未だ正確には解りかねます。
夢遊病(確かに目を開けているけれど前にいる男を見ていない感じ)という説を取り込み、ここから僕は、覚醒している昼間も実は夢の中にいるという結論を導き出したわけです。
>心の中で居なくなった人に話しかけることはよくあります。
亡母に対する罪悪感が強く、ひと月に一度くらい、僕も母に“ごめん”と声に出して、謝っていますよ。時に遺影に向かい、時にただの空間に向って。
母が(或る意味急死と言えると思います)突然亡くなった後に僕が覚えたのは、喪失感より罪悪感です。これは今も続く感情。
>田中裕子の言葉が重かった
>私は喪失感とどう向き合うかがテーマだと感じました。
母親が死んだ後の言葉ですね。
これが頭に残ったので、上の最後の太字コメントで珍しく真面目に、“去る”が通奏低音か、と書きました。テーマと通奏低音は逆転できる場合も少なくなく、本作も逆転できる感じがします。
ぐっすり眠れた翌朝はそれだけでありがたく思える今日この頃です。
>映画サイトでは夜になると発狂するのかと思った人が散見されますし
女は真夜中に発狂することがあるのです。お気をつけくださいませ。
田中裕子はこういう "若い日の何かしら” を背負ったまま一見淡々と日々の生活をこなしていく役が多いなぁ、と、それにしても「いつか読書する日」に似ていると思ったらどちらも原作、脚本が青木研次という人でした。
「長靴が似合う女優賞」を差し上げたい田中裕子ですが、歳のとり方がシャーロット・ランプリングに似ているように思いました。
具体的な容姿がどうこうではないのですが、醸し出す年輪というか歳月の重さというか・・・いつまでも若々しく美人である必要はないと勇気付けられます。(笑)
>女は真夜中に発狂することがあるのです。お気をつけくださいませ。
僕はぐっすり寝るので、眠っているうちに殺されないよう気を付けます(笑)
さて、あの場面の状況ですが、今日アップした「落下の解剖学」の状況に倣って言いますと、
あの場面には、発狂か、夢遊病か、一時的錯乱(失踪当時の夫とダブる長髪の青年を見たことによる混乱)か、という選択肢がありました。
厳密な意味での発狂は、昼間の様子とうまく繋がらないのでこれはなし。まあ、錯乱というところでしょう。
左脳人間には、こういうところが結構引っ掛かります。
反面、ヒロイン自身が“(自分は)狂っている”といった台詞もあったような気がして、この辺りを絡めると、却ってややこしいかも(笑)
>それにしても「いつか読書する日」に似ていると思ったら
僕も感じましたね。結構忘れているのですが(笑)
2005年製作ですからもう20年近く経つんですねえ。