映画評「落下の解剖学」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2023年フランス映画 監督ジュスティーヌ・トリエ
ネタバレあり
ジュスティーヌ・トリエという女性監督は初めて観ると思う。カンヌ映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞したフランス製法廷劇である。
フランス山岳地帯の町グルノーブルの冬。1968年冬季オリンピックの開催都市ですね。
交通事故の後遺症で失明に近い状態になった11歳の少年ダニエル(ミロ・マシャド=クラネール)が、愛犬の盲導犬スヌープと家に戻り、家の前の雪上で父親サミュエル(サミュエル・タイス)が倒れていることに気付く。
結局彼の死亡が確認されて警察のお出ましとなり、自殺、事故、殺人の間で沙汰されることになる。
過去の夫婦喧嘩などの状況証拠から妻のドイツ人作家サンドラ(サンドラ・ビュラー)が夫殺しの容疑者となり、保釈金を積んで釈放されるが、検事(アントワーヌ・レナルツ)は夫が密かに録っていたスマホの録音や、彼女が事件直前に会った女子大生の取材模様などから、類推して彼女の夫殺しを決めつける。
審議が進み、揺れるところもあるが、サンドラ以外で事件の背景に一番近いところにいる息子の証言が事件の行方を左右することになる。
設定は極めて本格ミステリー的だが、「羅生門」(1950年)のヴァリエーションと言えば、その通りだろう。
しかし、実際に事件を知っている可能性があるのは容疑者サンドラただ一人。彼女とて犯人でなければ何も知らないことになる。検察に至っては、凶器も見つかっていないのに状況証拠だけで彼女を有罪にしようとしている。しかるに、状況証拠だけで有罪と言うなら、状況証拠で無罪とも言える状況なのである。
検察が持ち出した録音から見える夫婦喧嘩から一番考えられるのは、寧ろ検察の憶測とは正反対に、夫が妻に罪を着せようと細工をした上で自殺をしたという線だ。そもそも成功した妻が、まともに作品を完成することもできない夫を殺す理由などありはしない。検察の無理筋なのである。
「羅生門」よろしく真相は藪の中と見える終わり方だが、作品が提示した情報に映像や音声の嘘がなければ自殺として見るのが妥当であろう。
余り藪の中とも思えない次第だが、それでも作者は、物事について決めつけることは簡単ではないとする。
最後にヒロインの横に寝そべる愛犬スヌープが一番真実を知っていると言って良い(犬の主観のようなショットが序盤にあるのはその布石みたいなもの)が、その彼は言葉を喋ることはできない。最初に事件に気付いた人間ダニエルは目が見えない。
このように、この映画は視覚と聴覚の組合せに腐心し、工夫をめぐらす作品となっている。
序盤、サミュエルは妻の学生によるインタビューを邪魔するかのように音楽を大音量でかける。するかではなく、確実にしている。実際に会話が成り立たないのは作家たる妻と学生だが、これは夫婦のコミュニケーション不全を暗示する。
検察が提出した録音は、すぐに視覚を伴うものに移行するが、これは回想ではなく検事や参審員(アメリカの陪審員とほぼ同じ)によって想像されるものであり、事件性を示す不穏な音の部分になると視覚が消える。そこにいた二人以外に確定的に見ることができないからだ。回想でないと言える所以である。
少年の証言にも視覚を伴う部分があるが、視覚が極端に弱い彼が回想できるのは音声だけであるから、この視覚も少年による回想ではない。
無罪判決を伝えるTVリポーターの声が途中で聞こえなくなり、ダニエル君がヴォリュームを絞ったのか、画面だけになる。
このように配置された、音声と視覚の様々な組み合わせの形態は、視覚と聴覚が揃って初めて情報となるという真理を示している。従って、本作の主題に従えば、このパラグラフの初めに示したのは、確実に思えても僕の不確実な憶測にすぎないということになる。
アメリカ製の虚々実々の駆け引きを見せる娯楽性重視の法廷劇とも、所謂社会派とも違う、純文学的な法廷劇である。お話の流れや起伏ではなく、聴覚と視覚の関係に注視すべき映画と早めに気付けば151分などあっと言う間に終わる、見応え抜群の秀作と言うべし。
ポワロが出てくればすぐに解決します。
2023年フランス映画 監督ジュスティーヌ・トリエ
ネタバレあり
ジュスティーヌ・トリエという女性監督は初めて観ると思う。カンヌ映画祭の最高賞パルム・ドールを受賞したフランス製法廷劇である。
フランス山岳地帯の町グルノーブルの冬。1968年冬季オリンピックの開催都市ですね。
交通事故の後遺症で失明に近い状態になった11歳の少年ダニエル(ミロ・マシャド=クラネール)が、愛犬の盲導犬スヌープと家に戻り、家の前の雪上で父親サミュエル(サミュエル・タイス)が倒れていることに気付く。
結局彼の死亡が確認されて警察のお出ましとなり、自殺、事故、殺人の間で沙汰されることになる。
過去の夫婦喧嘩などの状況証拠から妻のドイツ人作家サンドラ(サンドラ・ビュラー)が夫殺しの容疑者となり、保釈金を積んで釈放されるが、検事(アントワーヌ・レナルツ)は夫が密かに録っていたスマホの録音や、彼女が事件直前に会った女子大生の取材模様などから、類推して彼女の夫殺しを決めつける。
審議が進み、揺れるところもあるが、サンドラ以外で事件の背景に一番近いところにいる息子の証言が事件の行方を左右することになる。
設定は極めて本格ミステリー的だが、「羅生門」(1950年)のヴァリエーションと言えば、その通りだろう。
しかし、実際に事件を知っている可能性があるのは容疑者サンドラただ一人。彼女とて犯人でなければ何も知らないことになる。検察に至っては、凶器も見つかっていないのに状況証拠だけで彼女を有罪にしようとしている。しかるに、状況証拠だけで有罪と言うなら、状況証拠で無罪とも言える状況なのである。
検察が持ち出した録音から見える夫婦喧嘩から一番考えられるのは、寧ろ検察の憶測とは正反対に、夫が妻に罪を着せようと細工をした上で自殺をしたという線だ。そもそも成功した妻が、まともに作品を完成することもできない夫を殺す理由などありはしない。検察の無理筋なのである。
「羅生門」よろしく真相は藪の中と見える終わり方だが、作品が提示した情報に映像や音声の嘘がなければ自殺として見るのが妥当であろう。
余り藪の中とも思えない次第だが、それでも作者は、物事について決めつけることは簡単ではないとする。
最後にヒロインの横に寝そべる愛犬スヌープが一番真実を知っていると言って良い(犬の主観のようなショットが序盤にあるのはその布石みたいなもの)が、その彼は言葉を喋ることはできない。最初に事件に気付いた人間ダニエルは目が見えない。
このように、この映画は視覚と聴覚の組合せに腐心し、工夫をめぐらす作品となっている。
序盤、サミュエルは妻の学生によるインタビューを邪魔するかのように音楽を大音量でかける。するかではなく、確実にしている。実際に会話が成り立たないのは作家たる妻と学生だが、これは夫婦のコミュニケーション不全を暗示する。
検察が提出した録音は、すぐに視覚を伴うものに移行するが、これは回想ではなく検事や参審員(アメリカの陪審員とほぼ同じ)によって想像されるものであり、事件性を示す不穏な音の部分になると視覚が消える。そこにいた二人以外に確定的に見ることができないからだ。回想でないと言える所以である。
少年の証言にも視覚を伴う部分があるが、視覚が極端に弱い彼が回想できるのは音声だけであるから、この視覚も少年による回想ではない。
無罪判決を伝えるTVリポーターの声が途中で聞こえなくなり、ダニエル君がヴォリュームを絞ったのか、画面だけになる。
このように配置された、音声と視覚の様々な組み合わせの形態は、視覚と聴覚が揃って初めて情報となるという真理を示している。従って、本作の主題に従えば、このパラグラフの初めに示したのは、確実に思えても僕の不確実な憶測にすぎないということになる。
アメリカ製の虚々実々の駆け引きを見せる娯楽性重視の法廷劇とも、所謂社会派とも違う、純文学的な法廷劇である。お話の流れや起伏ではなく、聴覚と視覚の関係に注視すべき映画と早めに気付けば151分などあっと言う間に終わる、見応え抜群の秀作と言うべし。
ポワロが出てくればすぐに解決します。
この記事へのコメント
>ポワロが出てくればすぐに解決します。
クリスティに可愛いテリア犬が登場する「もの言えぬ証人」というのがありますね。
日常会話は英語でするフランス人とドイツ人の夫婦っていう設定だけで、かなりやばいですよね。
夫がドイツ人で妻がフランス人なら少しはましかな? 知らんけど・・・
子供の同級生のお母さんにドイツ人がいましたが日本に溶け込むのが難しそうで気の毒な感じでした。
今、この辺にフランス人は結構いますが我が道を行く感じですかね。
先日も娘の友達が結婚する予定らしいフランス人を連れてきましたが、本人たちがフランスは離婚大国やと言ってました。
フランスは正式な結婚ではないパートナー?制度のようなのがあるようで、正式に結婚すると離婚するのが面倒らしい (笑)
一点疑問だったのが、犬の散歩から帰ってきた息子がすぐに倒れている父親のもとに走り寄ったシーンです。全盲ではないとは言うものの屋外と屋内を識別するためにテープを貼ってもらっているレベルらしいのによくわかったなぁ、と。
この息子が鍵ですね。どちらか分からない時にはママを助けないと、それこそ一生罪悪感に苛まれてしまいかねませんし今後の彼の生活にも暗雲が立ち込めてしまいますからね。
鑑賞後の相方が一言、「大型犬もええなぁ~」でした。迂闊なことは言わない奴です。
>夫がドイツ人で妻がフランス人なら少しはましかな? 知らんけど・・・
どうですかなあ。
フランス人は男も女も議論好きですから、ややこしくなりそうです。
>フランスは正式な結婚ではないパートナー?制度のようなのがあるよう
そうですね。多分半数くらいがこれだったと思います。
しかし、昔はカトリックで離婚が難しい為ある時から急に増えたようですね。国も正式のパートナーと同じように扱うので、日本に比べれば子供は増えますよ。
>テープを貼ってもらっているレベルらしいのによくわかったなぁ、と。
確かに。
実は考えられているより見えているとか?
そうなると、また複雑になりますね。
でも、ミステリーとして見ると、もやっとしたまま終わるかんじでしたが、そこらへんもフランス映画らしいかな、と、フランス映画好きとしては思いました。
>愛犬スヌープが一番真実を知っている
たぶんそうなんですよね。でも、スヌープはすべてわかったうえで家族を受け入れているように見えてきて。
ロンドンから、経済的問題もあって夫の故郷の雪国に引っ越してきていて、ザンドラはうっくつしてるようで、家族三人が雪の中に閉じ込められる「シャイニング」を思い出したりしました。
>ミステリーとして見ると、もやっとしたまま終わるかんじ
結構本格ミステリーの設定ですが、作者にとってミステリーは、ダシのような気もしました。
純文学という以上に、映画における視覚と音声の関係に踏み込んだところが面白いと思いましたよ。
>>愛犬スヌープが一番真実を知っている
>たぶんそうなんですよね。でも、スヌープはすべてわかったうえで家族を受け入れているように見えてきて。
僕にもそう見えました。