映画評「父は憶えている」

☆☆☆(6点/10点満点中)
2022年キルギス=日本合作映画 監督アクタン・アリム・クバト
ネタバレあり

キルギスの家には土間があって靴を脱いで上がる日本と同じ習慣があるのを、キルギス映画「あの娘と自転車に乗って」で見て、キルギス人はトルコ系なのに興味深いと思ったことがある。全地帯がそういうわけではないのかもしれないが。

キルギスの村。妻と子供二人を持つ青年クバト(ミルラン・アブディカリコフ)が、23年前にロシアに(恐らく出稼ぎに)行ったきり杳として行方の知れなくなった父親ザールク(アクタン・アリム・クバト)を発見して村に連れ帰る。村人から帰郷を歓迎されるが、記憶を失っていて言葉も話さない。妻だったウムスナイ(タアライカン・アバゾヴァ)は死んだと思って、求婚してきた近くの権力者と再婚している。
 こんな状況下で、老人はゴミを見れば拾ってトラックに乗せようとする。ロシアでの仕事に何か関係があるのかもしれない。孫娘は老人に親しみを覚えて手伝ったりする。
 情の濃いウムスナイは、前夫の帰還に気持ちを揺さぶられて夫に離婚を申し出る。イスラム教的父権主義なので離婚は夫のみに許された権利である。サールクの帰還を祝う集まりがクバトの家で行われる。そこへウムスナイがやって来て、 “青年が娘のことを憶えている” という歌を歌い始める。その時若い時に二人がデートもしたポプラの木立を白く塗っているサールクの耳に歌声が届く。老人に何か化学変化が起こるだろうか。

というところで映画が終わる。

無用な情報の多いTVドラマに慣れている人は、何でもかんでも説明されることを求めるが、解らなくても展開に変化を与えないものは解らなくて(寧ろ解らない方が)良い。特に昔のことに関してはそういうケースが多く、本作における老人のロシア時代の経験はその類であろう。

本作は、家族の情愛の機微、村人の隣人愛の機微を描くことに眼目であったと思う。そこで浮かび上がるのは実は妻の夫への消え去っていない愛情なのである。村で唯一ロシア的な権力を行使する権力者を除いて奇妙な行動を取る老人を悪く思う者はいない。火事を起こした(であろう)老人が事後に非難される様子がない。実に清々しいではないか。

イスラム教故の習慣と遊牧民的な風俗を合わせたような独特の文化も面白く、大国や都会にはないスローな生活ぶりが楽しめる一方、ロシア的な歪な資本主義が近くまで迫っていることはゴミの多さなどから容易に想像される。文明論に言及する映画なのかもしれない。全体として生活詩的なムードが漂うが、もっとキルギス的な野趣が見られても良かったと思う。

“憶” 自体は常用漢字だが、 残念ながら、大分昔から “憶える” は常用となっていない。しかるに、記憶に関する“覚える”には無理がある。“覚”には記憶に関する熟語がないではないか。全て感覚に関する熟語ばかりである。小説でも映画の字幕でも95%くらいがこの規則を忠実に守っている。出来るだけ早く、瞬間的に意味を捉えることができる“憶える”に権利を与えるべきである。本作の邦題を付けた配給会社に“あっぱれ”を進呈したい。

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