映画評「ひきしお」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
1971年イタリア=フランス合作映画 監督マルコ・フェレーリ
ネタバレあり
映画ファンになってさほど経たない頃、本作の封切紹介(1972年)を見て、本作のマルコ・フェレーリと、フェデリコ・フェリーニとの間で混乱したのを懐かしく思い出す。
本作は映画館では観ず、数年後紹介時のことを思い出しつつTVで鑑賞した。通算3回目(原語版は2回)。
エーゲ海の、戦時中にちょっとした施設があったのかもしれない孤島に、カトリーヌ・ドヌーヴが友人たちとヴァカンスにやって来る。友人たちとの軽薄な暮らしに飽き飽きし、作家マルチェロ・マストロヤンニが独り生活しているのを興味を持って、島に残る。
一旦街に帰るが再び島に戻って一緒に過ごし始める。彼の唯一の相棒たる愛犬メランポを海に誘い出して溺死に至らしめると、自ら首輪を嵌め、犬のように彼に寄り添い始める。
当時この倒錯的な設定が話題になったが、異様な情景ではあっても性的な狙いは希薄のように感じられる。異様な印象はあるが、そうエロティックではない。
マストロヤンニが息子の訪問を受け、自殺未遂したという細君(前妻、元妻?)コリンヌ・マルシャンを見舞いに行く。この後がよく解らないのだが、愛人?後妻?自宅で退院した彼女とローティーンの娘(実の娘?)と食事をしていると、そこへカトリーヌが無理矢理押し入る。
澄ましてはいるもののコリンヌの俗悪な正体に厭世的な気分に苛まれ二人は島に戻るが、ボートが流され、食物も尽きて、動かない飛行機に乗って死を待つ。
(追記)常連のモカさんの説明で、病院で伏せていた女性と家で娘といる女性が同一人物と判明しましたので、上記の如く修正しました。元来映像記憶が悪く、かつ、歳を取ってから集中力を欠くことが多くなって、この様です。情ない。画面に息子がいれば簡単に解ったのですがね。下に記したように、説明不足という点において作者側の責任も5%くらいはあると思います。(追記終了)
元ドイツ軍兵士がやってきたり、脱走兵を追って軍隊が上陸したり、ある程度の頻度で人がやって来るので、ロビンソン・クルーソー世捨て人版を気取っても、必ずしも死ぬとは決まっていないが、ちょっと鬼気迫るムードがあることは認めたい。反面、マストロヤンニが厭世観を持っているのは比較的容易に理解できるが、カトリーヌの方はかなり曖昧。
もっと長いものをカットしたのではないかと思われるほど唐突なシークエンス挿入や本土での説明不足感だけではなく、一番肝心な二人の心情(とりわけヒロイン)がよく解らないので、潜在能力ほど迫力が出た映画とまでは言えない。
母親の自殺未遂を告げに来た息子とのやり取りでカメラの切り替えをしない辺りにフェレーリの独特のセンスを感じ、当時のイタリア監督らしからずズームを使わないと感心していたら、その後ズームが二度出て苦笑させられた。
「流されて…」(1974年)やそのリメイク「スウェプト・アウェイ」(2002年)がこの後作られたが、主題的には大分違う。これらは、女主人と男性使用人の関係が逆転するサイレント映画「男性と女性」(1919年)と同工異曲で、「流されて…」に若い批評家たちが騒いでいた時淀川長治先生などベテラン陣は “昔の映画の焼き直しにすぎない” と冷ややかであった。 6月に観た「逆転のトライアングル」はその複数ヴァリエーションだ。
1971年イタリア=フランス合作映画 監督マルコ・フェレーリ
ネタバレあり
映画ファンになってさほど経たない頃、本作の封切紹介(1972年)を見て、本作のマルコ・フェレーリと、フェデリコ・フェリーニとの間で混乱したのを懐かしく思い出す。
本作は映画館では観ず、数年後紹介時のことを思い出しつつTVで鑑賞した。通算3回目(原語版は2回)。
エーゲ海の、戦時中にちょっとした施設があったのかもしれない孤島に、カトリーヌ・ドヌーヴが友人たちとヴァカンスにやって来る。友人たちとの軽薄な暮らしに飽き飽きし、作家マルチェロ・マストロヤンニが独り生活しているのを興味を持って、島に残る。
一旦街に帰るが再び島に戻って一緒に過ごし始める。彼の唯一の相棒たる愛犬メランポを海に誘い出して溺死に至らしめると、自ら首輪を嵌め、犬のように彼に寄り添い始める。
当時この倒錯的な設定が話題になったが、異様な情景ではあっても性的な狙いは希薄のように感じられる。異様な印象はあるが、そうエロティックではない。
マストロヤンニが息子の訪問を受け、自殺未遂したという細君
澄ましてはいるもののコリンヌの俗悪な正体に厭世的な気分に苛まれ二人は島に戻るが、ボートが流され、食物も尽きて、動かない飛行機に乗って死を待つ。
(追記)常連のモカさんの説明で、病院で伏せていた女性と家で娘といる女性が同一人物と判明しましたので、上記の如く修正しました。元来映像記憶が悪く、かつ、歳を取ってから集中力を欠くことが多くなって、この様です。情ない。画面に息子がいれば簡単に解ったのですがね。下に記したように、説明不足という点において作者側の責任も5%くらいはあると思います。(追記終了)
元ドイツ軍兵士がやってきたり、脱走兵を追って軍隊が上陸したり、ある程度の頻度で人がやって来るので、ロビンソン・クルーソー世捨て人版を気取っても、必ずしも死ぬとは決まっていないが、ちょっと鬼気迫るムードがあることは認めたい。反面、マストロヤンニが厭世観を持っているのは比較的容易に理解できるが、カトリーヌの方はかなり曖昧。
もっと長いものをカットしたのではないかと思われるほど唐突なシークエンス挿入や本土での説明不足感だけではなく、一番肝心な二人の心情(とりわけヒロイン)がよく解らないので、潜在能力ほど迫力が出た映画とまでは言えない。
母親の自殺未遂を告げに来た息子とのやり取りでカメラの切り替えをしない辺りにフェレーリの独特のセンスを感じ、当時のイタリア監督らしからずズームを使わないと感心していたら、その後ズームが二度出て苦笑させられた。
「流されて…」(1974年)やそのリメイク「スウェプト・アウェイ」(2002年)がこの後作られたが、主題的には大分違う。これらは、女主人と男性使用人の関係が逆転するサイレント映画「男性と女性」(1919年)と同工異曲で、「流されて…」に若い批評家たちが騒いでいた時淀川長治先生などベテラン陣は “昔の映画の焼き直しにすぎない” と冷ややかであった。 6月に観た「逆転のトライアングル」はその複数ヴァリエーションだ。
この記事へのコメント
>自殺未遂したという細君(前妻、元妻?)を見舞いに行く。
>この後がよく解らないのだが、愛人?後妻?コリンヌ・マルシャンの家で
これは同じ女性ですよ。退院して家で一緒に食事しているんですよ。
ドヌーブがアポ無し突撃訪問したらそれまで娘に纏わりついていた猫がどっかに 逃げていってしまうという分かりやすい状況で、笑ってしまいます。
公開時にお金払って観に行ってゲンナリした「最後の晩餐」の監督ですね。
真面目に観たらアカンやつだと思います。
あれは何故当時あんなに評価されたのでしょうかね?
さしておもしろくもなかったですし。
賞でも取ってたのかな?
>淀川長治先生などベテラン陣は “昔の映画の焼き直しにすぎない” と冷ややかであった。
昔の映画の焼き直し、いっぱいありそうですね。そういうことを一般のファンにわかりやすく教えてくれる淀川長治先生みたいな方がいなくなってしまって、さびしいです。
>これは同じ女性ですよ。退院して家で一緒に食事しているんですよ。
おおっ、合点しました。
しかし、最近はいかんですな。やはり集中力を欠いていますよ。
僕と違って映像記憶が良い人は、顔を見れば解るのでしょうが。
何らかの形で訂正なり説明なりしておく必要がありそうです。
>公開時にお金払って観に行ってゲンナリした「最後の晩餐」の監督ですね。
>真面目に観たらアカンやつだと思います。
僕も名画座ですけど映画館で観ましたよ。
げんなりしたけれど、真面目に観なかったので(笑)面白いことは面白かった。
>>「流されて…」
>あれは何故当時あんなに評価されたのでしょうかね?
ニューヨーク映画批評家協会賞で高く評価されていますね。
それ以外は大した受賞はないみたいです。
>昔の映画の焼き直し、いっぱいありそうですね。
>そういうことを一般のファンにわかりやすく教えてくれる淀川長治先生みたいな方がいなくなってしまって、さびしいです。
それは言えますね。
そんなに嘆かないで下さい。あれでは誰でも混乱しますよ。
たまたまUNEXTにあったのでその辺りまで重点的に観てみたのです。
UNEXTはアマプラと同じで何度でも同じ場面を観られるのでしかと検証いたしました。
一言の台詞で繋げられるのをサボった脚本家の怠慢だと思います。
UNEXTは主要キャストの一覧が見られて、それぞれの人が関わったUNEXTで今観られる作品にリンクできるありがたい機能があるんですが、この作品は脚本家が監督を含めて3人でそれぞれいい作品に関わっている人達なのでA級戦犯はどうも監督自身じゃないですかね?
私の場合映画自体を観たのか否かがわからない事が多いです。ラストシーンで思い出したり、翌日に思い出したり、謎のままだったり… 適当に消去していかないと、とっくの昔にメモリーが不足してますしね。
>そんなに嘆かないで下さい。あれでは誰でも混乱しますよ。
有難うございます。
確かにそうですが、文脈で把握できなかったか、という反省はあります。
>一言の台詞で繋げられるのをサボった脚本家の怠慢だと思います。
息子を少し出すだけでも良かったのですが。それもなかった。
>私の場合映画自体を観たのか否かがわからない事が多いです。
僕もありますね。
観た後にIMDbに行ったら採点済みということで解ることがしばしば。
このマルコ・フェレーリ監督の「ひきしお」は、不思議な美しさにあふれた、夢幻的メルヘン的な小世界を描いた映画でしたね。
だけど、よくよく考えると、かなり怖い話であるような気がします。
社会生活を嫌ったマルチェロ・マストロヤンニ扮する中年の画家が、妻子を捨てて、地中海の小島で暮らすことに。
彼の唯一の友は、愛犬"メランポ"(この映画の原題)だ。
そこへ通りがかりのヨットを降りた、カトリーヌ・ドヌーヴ扮する都会の女が舞い込む。
女は男と抱き合って、だが男と犬の間に割り込めない。
嫉妬した女は、犬を沖へ誘って水死させ、その首輪を自分がはめて、犬になりかわる。
"変身"した女は、男の命令に絶対服従で、じゃれて、つきまとって、身をすり寄せてクークーと鳴く。
自主性を捨てた女は、倒錯的な愛の陶酔にひたり、フロイト的な相互心理の、この異様な男女の風景は、妖しくなまめいた魅惑が感じられる。
妻が自殺しかけたという知らせで、男がパリの自宅へ呼び戻される描写があるが、ここでは、この男の社会人としての失格と、不毛の夫婦(家庭)生活の断層が、深く絶望的にのぞく。
そして、再び男は島へ帰る。やがて嵐でボートが流され食料も尽き、二人は脱出を図るが、島に打ち捨てられていた、オンボロの戦闘機は飛び立たず、映画は二人の死を暗示して終わるのだった--------。
人間社会の関わり合いに疲れた男は、忠実な犬しか愛さず、犬との間にしか連帯がなかったんですね。
その犬に女が変身したとしても、所詮は馴れ合いの戯れではないか。
この男の孤独なエゴイズムに、ヨーロッパの虚無と頽廃が色濃く浮かんでいるようにも思えてきます。
ま、それでも、そう深刻に観ないで、当時、私生活でも愛人同士だった主役二人の、"おのろけ映画"として観ても、いっこうにさしつかえない映画だと思う。
>人間社会の関わり合いに疲れた男は、忠実な犬しか愛さず、犬との間にしか連帯がなかったんですね。
彼女は結局犬の地位を得られなかったのでしょうかねえ。
物質に立脚する社会に対する皮肉な目を注いだ映画。