映画評「ネイビーシールズ 空港占拠」
☆☆★(5点/10点満点中)
2024年イギリス=アメリカ合作映画 監督ジェームズ・ナン
ネタバレあり
勘違いして観てしまったが、こういう映画は、僕のようなかちかちの左脳人間にはダメである。【こういう映画】とはどういう映画かは、梗概の後に述べる。
「ネイビーシールズ ローグ・ネイション」という作品の続編のようで、その為か前作を観ていない人には解りにくいところがある。
CIAの連中とネイビーシールズの主人公スコット・アドキンズが、ワシントンDCで行われる大統領演説をターゲットにした核攻撃を阻止すべく、空港に到着したコンテナに積まれた核物質を守っているところへ、正体不明の一味が襲ってきて激しい撃ち合いになり、最終的に彼以外は全滅する。
この貨物の鍵を握っているのが一味によってテロリストに仕立てられたトルコ系イギリス人ワリード・エルガディで、敵は妊娠中の彼の妻ミーナ・レイヤンを脅して核攻撃ではない真の目的を達成しようと彼の口からコンテナ番号を聞き出す。
一味のそれ以上の活動を阻止すべくアドキンズは孤軍奮闘する。
というお話はさまでつまらなくはない。問題はこれを全編ノーカットで撮ったことである。
全編ノーカットという手法は、一人称映画やPOV映画に通じ、それ自体が妙な映画言語を生む。必然的にカメラはハンディになるが、カメラが揺れるとドキュメンタリー風になって臨場感が増すという勘違いを起こさせる。それをワンカットで撮ると一人称映画になり、その一人称の主はカメラマンという風に理解されることになる。これを神の視点と見なすことなど到底僕には出来ない。
勿論これは左脳人間の理解であって、そんなことは少しも考えない人が多いだろうが、その前提で解釈すると、どうしてカメラマンがこう自由自在に撮ることが出来るのだ?といった、通常の映画では起こらない疑問(勿論これは映画論的に意図的に提示する疑問であって、実際に真剣に考えているわけではない)が湧き上がる。
アルフレッド・ヒッチコックが「ロープ」(1948年)でワンカット映画を試みた時、こんな疑問に思いを馳せる必要はなかった。あの作品はそれなりに神の視点の映画になっているのである。
アクションになると馬鹿の一つ憶えのように突然カメラを揺らし始める監督や撮影監督が多いが、劇映画は本来神の視点で作られるべきで、カメラの存在やフレームを必要以上に意識させてはダメなのだ。そんなことを露ほども考えない映画人が多すぎる。たまに作られる分には悪くないが、それでもPOV映画の無駄の多さには閉口させられる。
2024年イギリス=アメリカ合作映画 監督ジェームズ・ナン
ネタバレあり
勘違いして観てしまったが、こういう映画は、僕のようなかちかちの左脳人間にはダメである。【こういう映画】とはどういう映画かは、梗概の後に述べる。
「ネイビーシールズ ローグ・ネイション」という作品の続編のようで、その為か前作を観ていない人には解りにくいところがある。
CIAの連中とネイビーシールズの主人公スコット・アドキンズが、ワシントンDCで行われる大統領演説をターゲットにした核攻撃を阻止すべく、空港に到着したコンテナに積まれた核物質を守っているところへ、正体不明の一味が襲ってきて激しい撃ち合いになり、最終的に彼以外は全滅する。
この貨物の鍵を握っているのが一味によってテロリストに仕立てられたトルコ系イギリス人ワリード・エルガディで、敵は妊娠中の彼の妻ミーナ・レイヤンを脅して核攻撃ではない真の目的を達成しようと彼の口からコンテナ番号を聞き出す。
一味のそれ以上の活動を阻止すべくアドキンズは孤軍奮闘する。
というお話はさまでつまらなくはない。問題はこれを全編ノーカットで撮ったことである。
全編ノーカットという手法は、一人称映画やPOV映画に通じ、それ自体が妙な映画言語を生む。必然的にカメラはハンディになるが、カメラが揺れるとドキュメンタリー風になって臨場感が増すという勘違いを起こさせる。それをワンカットで撮ると一人称映画になり、その一人称の主はカメラマンという風に理解されることになる。これを神の視点と見なすことなど到底僕には出来ない。
勿論これは左脳人間の理解であって、そんなことは少しも考えない人が多いだろうが、その前提で解釈すると、どうしてカメラマンがこう自由自在に撮ることが出来るのだ?といった、通常の映画では起こらない疑問(勿論これは映画論的に意図的に提示する疑問であって、実際に真剣に考えているわけではない)が湧き上がる。
アルフレッド・ヒッチコックが「ロープ」(1948年)でワンカット映画を試みた時、こんな疑問に思いを馳せる必要はなかった。あの作品はそれなりに神の視点の映画になっているのである。
アクションになると馬鹿の一つ憶えのように突然カメラを揺らし始める監督や撮影監督が多いが、劇映画は本来神の視点で作られるべきで、カメラの存在やフレームを必要以上に意識させてはダメなのだ。そんなことを露ほども考えない映画人が多すぎる。たまに作られる分には悪くないが、それでもPOV映画の無駄の多さには閉口させられる。
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