映画評「お早よう」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1959年日本映画 監督・小津安二郎
ネタバレあり
WOWOWの放映メニューの結果、近年は邦画の比率が多くなって、元来の洋画ファンとしては面白く思っていないわけである一方、久しぶりに小津調の小津安二郎でも観ようかと考えていたら、常連の蟷螂の斧さんから「お早よう」を観たとコメントが入った。その為にブログ開設後「お早よう」をまだ再鑑賞していないことに気付き、マイ・ライブラリーからブルーレイを取り出した。
小津はセルフ・リメイクとでも言うべき作品が多く、本作は戦前の大傑作「生れてはみたけれど」のリメイクとでも言いたくなる内容で、そこに加えて「長屋紳士録」の要素もあろうか。
舞台は、堤防の下に並ぶ長屋感覚で人々近所付き合いをしている住宅群で、その家の狭間を捉えて画面奥に堤防が横たわる、大袈裟に言えばHの画面構図を成す空ショット(人のいない情景を捉えたもの。但し、情景としての人がいても空ショットと言って良いだろう)が随時挿入され、場面転換を行う。
このブログを始めてすぐに、欧米映画のビル群が小津式場面転換の為に使われていることに気付いた。必ずしもエスタブリッシング・ショット(舞台や位置関係を示すショット)ではないのである。フェイドアウトやオーヴァーラップなどを使わない監督(現在の監督はほぼ全てこれだが)にとって空ショットは重要だし、観客にも解りやすくて良い。
その堤防で子供たちが額を小突かれるとおならをするという遊びに興じている。子供がひたいを小突くのは「生れてはみたけれど」にも見られた。
その為に杉村春子の息子はしばしば大を洩らして母親に怒られる。しまいに母親は “死んでも良い” などと今なら虐待となる言葉を平気で吐く。
他にも “女の腐ったような” とかフェミニストが怒り出すようなセリフも色々と出て来るが、しかし昔は互いに寛容であったし、そういう言葉などの氾濫に耐久力もあって、言われた方も簡単には傷つかないような時代であった。
とは言え、それはあくまで平均値であって、傷つく人も出て来るので、次第に差別用語は使わないようにしましょうというムードが1970年代後半に出て来た。
それはともかく、母親が洗ったパンツが干されている終盤のショットも味わいがある。
が、主役とも言うべきはこの少年ではなく、隣の笠智衆と三宅邦子の長男実(設楽幸嗣)と次男勇(島津雅彦)で、この二人は相撲中継が観たくて近くの若夫婦(大泉晃、泉京子)の家に御厄介になっている。
両親がそれを禁ずると “それではTVを買ってくれ” と兄弟は言う。しかし、父親に “お前たちは無駄口が多い” と窘められると今度は口を利かないストライキに入る。親だけではなく大人全てに対する反抗なので、学校へ行っても口を利かない((びっくりですな)。為に母親が近所に誤解されたりもし、杉村春子に至っては最後までお隣さんへの信用を取り戻さない。
兄弟は「生れてはみたけれど」同様にストライキの最中にご飯を持ち出して河原で食べ、巡査が現れたのでそのまま逃げ出す。当然家族が心配するうち、長男やその叔母・久我美子が英語でお世話になっているインテリ佐田啓二が繁華街で見つけ出してくる。
騒ぎが収まった後兄弟が廊下にTVの梱包箱に気付き大喜び。笠の父にとっては子供の要求に応えただけではなく、定年の後やっと家電店の営業職を見つけてホッとしているお隣・東野英治郎へのご祝儀でもあったろう。箱に入ったまま廊下にあるのが味である。
と書いてきたように「生れてはみたけれど」のヴァリエーションであるが、かの傑作が子供をだしに使った大人社会の寓話であるのに対し、こちらは子供がだしを超えた群像劇の一部を成す。
かくして、鑑賞者は、無駄について普遍的に考えるコント(小話)としての面白味を見出す次第。
それを象徴するのがお互いへの好意を言い出せず、 いつまでも “いい天気ですね” を繰り返す佐田啓二と久我美子を捉えたラスト・シーンだ。 元来同じ台詞もしくは言い換えの多い小津映画であるが、それがこれほど機能した場面を僕は知らない。お見事と言うべし。
無駄と言えばタイパ。芸術においては量より鑑賞の質を誇るべきなのだが、それをしない時代だ。音楽では、イントロや間奏を飛ばすという。彼らは歌を聴くのであって音楽を聴かない。僕は歌と同等かそれ以上に楽器の音に耳を傾ける。今時、歌がごく一部にすぎないプログレッシヴ・ロックを聴く若者は歌ではなく、真に音楽を聴く殊勝な人々だ。
1959年日本映画 監督・小津安二郎
ネタバレあり
WOWOWの放映メニューの結果、近年は邦画の比率が多くなって、元来の洋画ファンとしては面白く思っていないわけである一方、久しぶりに小津調の小津安二郎でも観ようかと考えていたら、常連の蟷螂の斧さんから「お早よう」を観たとコメントが入った。その為にブログ開設後「お早よう」をまだ再鑑賞していないことに気付き、マイ・ライブラリーからブルーレイを取り出した。
小津はセルフ・リメイクとでも言うべき作品が多く、本作は戦前の大傑作「生れてはみたけれど」のリメイクとでも言いたくなる内容で、そこに加えて「長屋紳士録」の要素もあろうか。
舞台は、堤防の下に並ぶ長屋感覚で人々近所付き合いをしている住宅群で、その家の狭間を捉えて画面奥に堤防が横たわる、大袈裟に言えばHの画面構図を成す空ショット(人のいない情景を捉えたもの。但し、情景としての人がいても空ショットと言って良いだろう)が随時挿入され、場面転換を行う。
このブログを始めてすぐに、欧米映画のビル群が小津式場面転換の為に使われていることに気付いた。必ずしもエスタブリッシング・ショット(舞台や位置関係を示すショット)ではないのである。フェイドアウトやオーヴァーラップなどを使わない監督(現在の監督はほぼ全てこれだが)にとって空ショットは重要だし、観客にも解りやすくて良い。
その堤防で子供たちが額を小突かれるとおならをするという遊びに興じている。子供がひたいを小突くのは「生れてはみたけれど」にも見られた。
その為に杉村春子の息子はしばしば大を洩らして母親に怒られる。しまいに母親は “死んでも良い” などと今なら虐待となる言葉を平気で吐く。
他にも “女の腐ったような” とかフェミニストが怒り出すようなセリフも色々と出て来るが、しかし昔は互いに寛容であったし、そういう言葉などの氾濫に耐久力もあって、言われた方も簡単には傷つかないような時代であった。
とは言え、それはあくまで平均値であって、傷つく人も出て来るので、次第に差別用語は使わないようにしましょうというムードが1970年代後半に出て来た。
それはともかく、母親が洗ったパンツが干されている終盤のショットも味わいがある。
が、主役とも言うべきはこの少年ではなく、隣の笠智衆と三宅邦子の長男実(設楽幸嗣)と次男勇(島津雅彦)で、この二人は相撲中継が観たくて近くの若夫婦(大泉晃、泉京子)の家に御厄介になっている。
両親がそれを禁ずると “それではTVを買ってくれ” と兄弟は言う。しかし、父親に “お前たちは無駄口が多い” と窘められると今度は口を利かないストライキに入る。親だけではなく大人全てに対する反抗なので、学校へ行っても口を利かない((びっくりですな)。為に母親が近所に誤解されたりもし、杉村春子に至っては最後までお隣さんへの信用を取り戻さない。
兄弟は「生れてはみたけれど」同様にストライキの最中にご飯を持ち出して河原で食べ、巡査が現れたのでそのまま逃げ出す。当然家族が心配するうち、長男やその叔母・久我美子が英語でお世話になっているインテリ佐田啓二が繁華街で見つけ出してくる。
騒ぎが収まった後兄弟が廊下にTVの梱包箱に気付き大喜び。笠の父にとっては子供の要求に応えただけではなく、定年の後やっと家電店の営業職を見つけてホッとしているお隣・東野英治郎へのご祝儀でもあったろう。箱に入ったまま廊下にあるのが味である。
と書いてきたように「生れてはみたけれど」のヴァリエーションであるが、かの傑作が子供をだしに使った大人社会の寓話であるのに対し、こちらは子供がだしを超えた群像劇の一部を成す。
かくして、鑑賞者は、無駄について普遍的に考えるコント(小話)としての面白味を見出す次第。
それを象徴するのがお互いへの好意を言い出せず、 いつまでも “いい天気ですね” を繰り返す佐田啓二と久我美子を捉えたラスト・シーンだ。 元来同じ台詞もしくは言い換えの多い小津映画であるが、それがこれほど機能した場面を僕は知らない。お見事と言うべし。
無駄と言えばタイパ。芸術においては量より鑑賞の質を誇るべきなのだが、それをしない時代だ。音楽では、イントロや間奏を飛ばすという。彼らは歌を聴くのであって音楽を聴かない。僕は歌と同等かそれ以上に楽器の音に耳を傾ける。今時、歌がごく一部にすぎないプログレッシヴ・ロックを聴く若者は歌ではなく、真に音楽を聴く殊勝な人々だ。
この記事へのコメント
>常連の蟷螂の斧さんから「お早よう」を観たとコメントが入った。
ありがとうございます。さて、小津安二郎監督作品でよく見られる撮り方。二人の登場人物が会話をする場合。それぞれの役者が喋るのを真正面から交互に撮る。他の監督はあまり使わない手法でしょうか?
>為に母親が近所に誤解されたりもし
近所の奥さん同士の人間関係。一人を嫌う事で他の奥さん同士が仲良くなる。滑稽でもあり、怖くもありました(苦笑)。
>それぞれの役者が喋るのを真正面から交互に撮る。
>他の監督はあまり使わない手法でしょうか?
二人を交互に撮ることを切り返しと言います。
小津ファンの監督は時に真似をしますが、余りいませんね。
一般の監督は、イマジナリー・ライン(想定線)を明確に使いたいので、片方を右において画面左を見させ、片方を左に寄せて画面右を見させることが多く、これが一般的でしょう。
イマジナリー・ラインについてはウィキペディアなどで説明されています。
>杉村春子に至っては最後までお隣さんへの信用を取り戻さない。
きく江(杉村春子)の母親みつ江(三好栄子)もなかなか凄かったです。押売りの男(殿山泰司)もタジタジでした。演じた三好さんは実生活では69歳の時に老衰で死去。平均寿命が70歳の時代だったんですね。
>(三好栄子)もなかなか凄かったです。押売りの男(殿山泰司)もたじたじ
>平均寿命が70歳の時代だったんですね。
強烈なキャラクターでしたねえ。
これを置き土産のようにし、もう一本出た後亡くなられたようですね。
母方の祖母も70を少し超えたところで亡くなりましたが、随分ふけていました。今の70歳とは親子くらい違う感じがします。
>今の70歳とは親子くらい違う感じがします。
今の70歳はまだまだ若いです。平均寿命も延びました。しかし、50代や60代で亡くなる人も結構います。寿命に関しても格差があります。
>杉村春子の息子はしばしば大を洩らして母親に怒られる。
この作品の重要部分の一つ。少年時代に、そういう恥ずかしい経験をした人もいた事でしょう。「ビートたけしのオールナイトニッポン」へのハガキでそれと同じ経験を素直に書いた人もいました。たけしさんが「こいつは人間的に温かみがあっていいね~!」と言いました。
>寿命に関しても格差があります。
しかし、現状では、経済格差よりは公平なところもあります。
とは言え、お金を持っていれば、先進医療を受けられ、相対的に長く生きられる可能性も高い。経済格差はやはり命の格差でもあるか。
>少年時代に、そういう恥ずかしい経験をした人もいた事でしょう。
小学生の時、下校時に一度だけ洩らしそうになったことがありますね。ぎりぎり間に合ったような気もしますが。
>経済格差はやはり命の格差でもあるか。
やはりそれが結論ですね。
>ぎりぎり間に合ったような気もしますが。
近くに公園があると助かります(苦笑)。
>定年の後やっと家電店の営業職を見つけてホッとしているお隣・東野英治郎へのご祝儀でもあったろう。
ご近所が助け合っていた時代ですね。仕事を回し合った商店街みたいな感じもします。
>騒ぎが収まった後兄弟が廊下にTVの梱包箱に気付き大喜び。
微笑ましい場面でした。この時代から年月が過ぎてカラーテレビ。ビデオデッキ。DVDレコーダー。今の若者はスマホが主流ですか?電化製品がどんどん進化していきます。でも、今はやはり格差の時代。一億総中流だったのは随分過去になってしまいました。
>近くに公園があると助かります(苦笑)
こちら、山ですから、そんな洒落たものはありません^^
しかも、(山なのに)隠れて用をたす場所もないという不便なところですよ。