映画評「ウンタマギルー」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1989年日本映画 監督・高嶺剛
ネタバレあり

30年くらい前に観た時非常に面白がった(興味深く観たの意味なり)作品で、1972年か71年頃本土復帰直前の沖縄を舞台にした寓話である。高嶺剛監督は沖縄出身だけに本物のムードが漂う。

精糖所で働く青年・島袋ギル―(小林薫)は、盲目の経営者西原親方(平良進)の娘とも言われる豊満な美女マレー(青山知可子)と契りを結び、親方の怒りを買う。マレーは実はニライカナイ(沖縄の異世界)の神と約束により庇護された豚の化身である。
 霊感を持つ娼婦の妹チルー(戸川純)の勧めで運玉森(ウンタマムイ)に身を潜めたギルーは、森の精霊キジムナー(宮里榮弘)から子供を助けたことへの恩返しにより、空中浮遊などの力を与えられて超人となる。
 かくして義賊ウンタマギルーとなって貧乏人に物品を与え、武器の類も盗んで独立派ゲリラの協力者となる。が、自ら義賊を演じるギルーは西原親方の適当に投げた槍に頭を抜かれ、どこかへ去っていく。親方は、マレーとの情交を楽しみにしていたニライカナイの神によりヤンバルクイナに変えられる。
 やがて、ギルーにそっくりなサンラー(小林二役)も働く精糖所を継いだ安里なる人物が訪れ、沖縄の本土復帰を告げた後マレーを道連れに自爆する。

最後の一幕は明らかに寓意で、極めて土着的で神話的な存在であるマレーの喪失は、沖縄ではなく琉球(の神話的世界)の終わりを暗示しているのであろう。

いずれにせよ、この映画の魅力や、かかる琉球的な神秘を土着的に描くことで生まれる野趣を楽しむに尽きる。当時僕にとって日本映画なのに字幕が出る映画を観るのはドキュメンタリー「ニッポン国 古屋敷村」(1982年)に継ぐ二回目の経験だったが、古代日本語やアジアのどこかの言葉を想起させる琉球語がこの野趣を強化したように思う。

欧州の中では中近東的ムードのある旧ユーゴが生み出したエミール・クストリッツァの作品世界に近く、そこにタイのアピチャッポン・ウィーラセタクンの世界を加えるとこんな感じになるはずだ。

ウンタマギルーは本土で言えば鼠小僧に近い義賊だが、森に潜み堂々と権力と対峙する辺りはロビン・フッドにより近い。空中を浮遊するのは中国的。

現在の日本政府の冷たさを考えると、沖縄は本土復帰より独立したほうが良かったような気がする。中国の脅威を考えると、そう単純に行かないのは解るが。

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