映画評「夏の嵐」(1956年日)
☆☆☆★(7点/10点満点中)
1956年日本映画 監督・中平康
ネタバレあり
二日続けて中平康監督作品。僕が瞠目した「狂った果実」と同年に発表された初期の青春映画で、かの作品と似ているところもある。
フランス的なヌーヴェル・ヴァーグは日活映画から始まったと言っても良いくらいだが、総合的に本作には「狂った果実」ほどの鮮烈な印象はない。尤も、鑑賞者たる僕は「狂った果実」の洗礼を受けて大きすぎる期待をしているので、割を食っているということもある。本作を最初に観ていたらどうだったか?
「狂った果実」は「太陽の季節」で芥川賞(1955年下半期)を受賞した石原慎太郎が原作で、本作は翌年上半期の候補に留まった深井迪子の同名中編の映画化である。
キリスト教徒の上流階級に生まれた女教師・北原三枝は、平凡な姉・小園蓉子の婚約者を見て驚く。2年前のキャンプに近い沼で知り合った傲慢な青年・三橋達也その人だったからである。大した事件があったわけではないが、互いに大きな影響を与え合った関係で、敢えて平凡な家庭人に落ち着くことを決めていた彼は再会によって調子を狂わせていく。
二人の姉妹には誕生直後に養子として弟に迎えた従弟・津川雅彦がい、二番目の姉に対して単なる姉弟の関係を超えた意識を抱いている感じがある。彼が彼女を名前で呼ぶことは自分が養子であることを知っている可能性を示し、彼の姉に向ける言葉は鑑賞者にとって意味深長である。
四人のうち中心にいるのは北原三枝であり、実際に四人が巻き込まれる台風のように他の三人を翻弄してしまうのである。「狂った果実」では兄とその恋人に嫉妬し狼藉を働く弟を演じた津川雅彦は、ここでは色々と理屈をこねくり回しても傍観者たるしかなく、姉とその真の恋人が自分たちに狼藉を働くのである。
この三人には体制的なもの特に制度としての家に対する意識に反抗しないではいられない態度が見える。それが彼らの悲劇の原因で、唯一平凡さに埋没していた長女も彼らの荒ぶれる魂に巻き込まれてしまう哀しさよ!
当方の集中力に問題があり、画面については殆どコメント出来ず。キスをする二人の、予想できないタイミングでのアップにはっとさせられたところくらいしか思い浮かばない。
カメラワークそのものではないが、北原三枝と津川雅彦の部屋が中庭か何かを挟んで相向かいにあり、その二重の窓越しに弟が姉の下着姿を見る辺りの設定が極めて鮮烈だ。貧乏家では絶対ありえない。
ルキノ・ヴィスコンティ監督が1954年に作った映画の邦題が「夏の嵐」(1955年10月に日本公開)だから、ややこしい。翌年前半に小説「夏の嵐」を発表した深井迪子がいつ書き始めたか知らないが、かの映画を観るか知るかして題名を決めた可能性があるね。
1956年日本映画 監督・中平康
ネタバレあり
二日続けて中平康監督作品。僕が瞠目した「狂った果実」と同年に発表された初期の青春映画で、かの作品と似ているところもある。
フランス的なヌーヴェル・ヴァーグは日活映画から始まったと言っても良いくらいだが、総合的に本作には「狂った果実」ほどの鮮烈な印象はない。尤も、鑑賞者たる僕は「狂った果実」の洗礼を受けて大きすぎる期待をしているので、割を食っているということもある。本作を最初に観ていたらどうだったか?
「狂った果実」は「太陽の季節」で芥川賞(1955年下半期)を受賞した石原慎太郎が原作で、本作は翌年上半期の候補に留まった深井迪子の同名中編の映画化である。
キリスト教徒の上流階級に生まれた女教師・北原三枝は、平凡な姉・小園蓉子の婚約者を見て驚く。2年前のキャンプに近い沼で知り合った傲慢な青年・三橋達也その人だったからである。大した事件があったわけではないが、互いに大きな影響を与え合った関係で、敢えて平凡な家庭人に落ち着くことを決めていた彼は再会によって調子を狂わせていく。
二人の姉妹には誕生直後に養子として弟に迎えた従弟・津川雅彦がい、二番目の姉に対して単なる姉弟の関係を超えた意識を抱いている感じがある。彼が彼女を名前で呼ぶことは自分が養子であることを知っている可能性を示し、彼の姉に向ける言葉は鑑賞者にとって意味深長である。
四人のうち中心にいるのは北原三枝であり、実際に四人が巻き込まれる台風のように他の三人を翻弄してしまうのである。「狂った果実」では兄とその恋人に嫉妬し狼藉を働く弟を演じた津川雅彦は、ここでは色々と理屈をこねくり回しても傍観者たるしかなく、姉とその真の恋人が自分たちに狼藉を働くのである。
この三人には体制的なもの特に制度としての家に対する意識に反抗しないではいられない態度が見える。それが彼らの悲劇の原因で、唯一平凡さに埋没していた長女も彼らの荒ぶれる魂に巻き込まれてしまう哀しさよ!
当方の集中力に問題があり、画面については殆どコメント出来ず。キスをする二人の、予想できないタイミングでのアップにはっとさせられたところくらいしか思い浮かばない。
カメラワークそのものではないが、北原三枝と津川雅彦の部屋が中庭か何かを挟んで相向かいにあり、その二重の窓越しに弟が姉の下着姿を見る辺りの設定が極めて鮮烈だ。貧乏家では絶対ありえない。
ルキノ・ヴィスコンティ監督が1954年に作った映画の邦題が「夏の嵐」(1955年10月に日本公開)だから、ややこしい。翌年前半に小説「夏の嵐」を発表した深井迪子がいつ書き始めたか知らないが、かの映画を観るか知るかして題名を決めた可能性があるね。
この記事へのコメント
私の場合この映画も原作本も知らなかったので、タイトルからすぐに連想したのはヘルマン・ヘッセの「春の嵐」です。
10代の頃に読んだっきりですが、今こそ読み返すべきかも、と思ったりしていますが 座って本ばっかり読んでたら足腰がもっと弱ってしまうし、どうしたもんでしょうね。
読書量も半端なくこなして毎日映画も1本観ておられるオカピー先生はその辺どうしていらっしゃいますか?
>ヘルマン・ヘッセの「春の嵐」
>10代の頃に読んだっきりですが、今こそ読み返すべきかも
当方も中学の時に読んで感激し「ゲルトルート」という原題まで記憶しました。
あの感動をもう一度と、大学の時に一度、20年くらい前にも読み直しましたねえ。最初の感激というものはなかなか再現できないとは思ったものの、素敵な小説と再確認はできました。
>足腰がもっと弱ってしまうし、どうしたもんでしょうね。
僕はこれで野良仕事もやっていますよ。雪が降った後は大量の竹が我が畑に倒れて片付けるのが結構な仕事量(想像を絶しますよ。11年前の大雪の時はあれやこれやで都合300時間くらいかかったと思います)。
速読ではないけれども、普通の人よりは読むのが早いので何とかなっているのかもしれません。
比較的有名なものなら、オーディブルなどで聴きながら歩くといった手段もありますが、どうでしょう? 「春の嵐」はないだろうなあ。