映画評「ぼくが生きてる、ふたつの世界」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2024年日本映画 監督・呉美保
ネタバレあり
2年前に「コーダ あいのうた」という米=仏=加合作の映画(実はフランス映画「エール!」のリメイク)を観た時、音楽用語のコーダと勘違いして、最後に大きな転調でもある音楽絡みの映画かと想像した。
音楽用語のコーダは、それまで用いられなかった主題を使った最終部を言い、ポピュラー音楽ではビートルズ「涙の乗車券」Ticket to Ride のアウトロがそれに当たる。
しかし、かの映画のコーダはchildren of deaf adultsの省略形で、難聴者の両親を持つ健常者の子供を指す。そして、本作の原作エッセイの作者である主人公は正にそのような息子である。
日本映画では極めて珍しいことに、実名(関係者や主人公が務める雑誌社などについては不明)で描かれる。僕はこの英断を高く評価する。実名を使うことで表現が制限されることなどはないと思う。
両親が共に聾者である主人公・五十嵐大(成長後吉沢亮)は、小学校に上がり連れて来た友人に母親(忍足亜希子)の喋り方が変と指摘され普通の家の子供でないことを気づかされ、成長するにつれ親とくに母親に対して怒りを覚えるようになる。ただの反抗期に加え、 “普通でない親に育てられている” という意識が拍車をかける。
目標の高校に落ちた後不良にならなかったのがせめてもの救いで、卒業後東京に出でパチンコ店でバイトをしながら記者として雇ってくれるところを探し続けるうち、小さな雑誌社に訪問した当日に採用されてしまう。
父親(今井彰人)がくも膜下出血に倒れて帰省した時に母親に “ここに残ろうか” と言うと、母親はそれに甘えず送り出すのである。
回想を交えた最後のシークエンスが抜群で、母と子の愛情の交換を描く映画に元来弱い僕は、大いにじーんとさせられた。
母親といるプラットフォームで映画は同じ場所に降り立った上京前の記憶が蘇るのだが、フラッシュバックと回想が二段構えになっている。
まず彼が数年前プラットフォームを歩く母親の後ろ姿をフラッシュバックした(このワン・クッションが実に効果的。涙ものだ)後、映画はそこから更に遡って彼の上京の意思を母親が知ってから準備を終えて帰る列車から降り立つまでを見せる。
既にこの段階で主人公は母親への憎しみを100%払拭してい、それどころか母親の愛情溢れる表情の一々(その小刻みな見せ方も良い)を思い出し、彼女に対し感謝の念を抱かざるを得ない。だから、数年後の帰省であのような発言になったわけである。
セミ・ドキュメンタリーの監督・呉美保の、この画面構成には舌を巻いた。
確かに両親が難聴者である子供の生き方は難しいだろうけれど、感謝を素直に受け入れてくれる母親のいてくれる彼は幸福だ。僕は3・11の2、3日後にスーパーに連れて行った母が店のレジ係に “ (車が運転できないので) この子がいないと何もできない” と言っているのを聞いてたまらない気持ちになった。 僕が自分のした冷たい仕打ちと心には抱いていた感謝の念を伝える前に母は1か月後に思わぬ死を迎えた。余りに無念であり、喪失感より自責の念にずっと苦しみ続けている。
2024年日本映画 監督・呉美保
ネタバレあり
2年前に「コーダ あいのうた」という米=仏=加合作の映画(実はフランス映画「エール!」のリメイク)を観た時、音楽用語のコーダと勘違いして、最後に大きな転調でもある音楽絡みの映画かと想像した。
音楽用語のコーダは、それまで用いられなかった主題を使った最終部を言い、ポピュラー音楽ではビートルズ「涙の乗車券」Ticket to Ride のアウトロがそれに当たる。
しかし、かの映画のコーダはchildren of deaf adultsの省略形で、難聴者の両親を持つ健常者の子供を指す。そして、本作の原作エッセイの作者である主人公は正にそのような息子である。
日本映画では極めて珍しいことに、実名(関係者や主人公が務める雑誌社などについては不明)で描かれる。僕はこの英断を高く評価する。実名を使うことで表現が制限されることなどはないと思う。
両親が共に聾者である主人公・五十嵐大(成長後吉沢亮)は、小学校に上がり連れて来た友人に母親(忍足亜希子)の喋り方が変と指摘され普通の家の子供でないことを気づかされ、成長するにつれ親とくに母親に対して怒りを覚えるようになる。ただの反抗期に加え、 “普通でない親に育てられている” という意識が拍車をかける。
目標の高校に落ちた後不良にならなかったのがせめてもの救いで、卒業後東京に出でパチンコ店でバイトをしながら記者として雇ってくれるところを探し続けるうち、小さな雑誌社に訪問した当日に採用されてしまう。
父親(今井彰人)がくも膜下出血に倒れて帰省した時に母親に “ここに残ろうか” と言うと、母親はそれに甘えず送り出すのである。
回想を交えた最後のシークエンスが抜群で、母と子の愛情の交換を描く映画に元来弱い僕は、大いにじーんとさせられた。
母親といるプラットフォームで映画は同じ場所に降り立った上京前の記憶が蘇るのだが、フラッシュバックと回想が二段構えになっている。
まず彼が数年前プラットフォームを歩く母親の後ろ姿をフラッシュバックした(このワン・クッションが実に効果的。涙ものだ)後、映画はそこから更に遡って彼の上京の意思を母親が知ってから準備を終えて帰る列車から降り立つまでを見せる。
既にこの段階で主人公は母親への憎しみを100%払拭してい、それどころか母親の愛情溢れる表情の一々(その小刻みな見せ方も良い)を思い出し、彼女に対し感謝の念を抱かざるを得ない。だから、数年後の帰省であのような発言になったわけである。
セミ・ドキュメンタリーの監督・呉美保の、この画面構成には舌を巻いた。
確かに両親が難聴者である子供の生き方は難しいだろうけれど、感謝を素直に受け入れてくれる母親のいてくれる彼は幸福だ。僕は3・11の2、3日後にスーパーに連れて行った母が店のレジ係に “ (車が運転できないので) この子がいないと何もできない” と言っているのを聞いてたまらない気持ちになった。 僕が自分のした冷たい仕打ちと心には抱いていた感謝の念を伝える前に母は1か月後に思わぬ死を迎えた。余りに無念であり、喪失感より自責の念にずっと苦しみ続けている。
この記事へのコメント