映画評「チャイコフスキーの妻」
☆☆★(5点/10点満点中)
2022年ロシア=フランス=スイス合作映画 監督キリル・セレブレンニコフ
ネタバレあり
チャイコフスキーの伝記映画ではケン・ラッセル監督「恋人たちの曲/悲愴」が面白いが、こちらはその妻アントニーナの伝記的映画である。
翻せば、チャイコフスキーの通常の伝記映画が余り扱わないようなもっとネガティヴな部分が見えるところがあるわけで、熱烈なチャイコフスキー・ファンにおかれてはそこだけが見どころだろうか。
1877年、チャイコフスキー(オディン・ルンド・バイロン)は、8歳年下のアントニーナ・ミリャーコヴァ(アリョーナ・ミハイロヴァ)に一方的に見初められると、遠回しに自分が同性愛者であることを匂わせ(彼が同性愛者であることを知らない観客にはほぼ解らない程度に。「恋人たちの曲/悲愴」を観ている人は知っている)最初は拒むが、恐らく資産家の娘らしい先方のお金と劇の終盤で台詞で出て来るように同性愛者であることを誤魔化すために結婚する。
しかし、そんな状態だからチャイコフスキーは細君から離れて離婚を求めて来る。最初の求愛から常識外れとしか見えないアントニーナはストーカー気質をいよいよ発揮、先方の使わす弁護士をうるさがる一方、自分の弁護士と関係を持って3人の子まで設ける。
結局まともに会ってもらえないうちに1893年チャイコフスキーはコレラで病死する。
冒頭で、彼の遺骸が置かれた部屋にアントニーナがやって来ると、死んでいたはずのチャイコフスキーが突然起き上がり文句を言い始める。
これが(彼女の立場での)幻想であることはすぐに解るが、監督が全編幻想だらけだった「インフル病みのペトロフ家」のキリル・セレブレンニコフだから、さもありなんの描写と言うべし。
この監督は幻想場面で役者を裸にするのも好きなようで、終盤何故かヒロインと男たちが踊る幻想場面で男たちは全裸である。
この映画が時に彼女はチャイコフスキーに会えたように見せているのに対し、最後の字幕で説明されるように、実際のアントニーナは彼が去った後永遠に会えなかったらしい。結婚の16年後1893年にチャイコフスキーは死んでいることを考えると、40年間(1917年に彼女は死去)会えなかったという言い方は大変面白い。
こういう監督の映画は通常の人生劇と同じように見てはいけないのだろうが、場面の繋ぎがかなりぎくしゃくしてスムーズではないので、ヒロインの強烈な性格が興味深いとは云え、映画として余り高く評価しづらい。
文豪ヴィクトル・ユゴーの娘アデルもストーカー気質で、その生涯は「アデルの恋の物語」で描かれましたね。
2022年ロシア=フランス=スイス合作映画 監督キリル・セレブレンニコフ
ネタバレあり
チャイコフスキーの伝記映画ではケン・ラッセル監督「恋人たちの曲/悲愴」が面白いが、こちらはその妻アントニーナの伝記的映画である。
翻せば、チャイコフスキーの通常の伝記映画が余り扱わないようなもっとネガティヴな部分が見えるところがあるわけで、熱烈なチャイコフスキー・ファンにおかれてはそこだけが見どころだろうか。
1877年、チャイコフスキー(オディン・ルンド・バイロン)は、8歳年下のアントニーナ・ミリャーコヴァ(アリョーナ・ミハイロヴァ)に一方的に見初められると、遠回しに自分が同性愛者であることを匂わせ(彼が同性愛者であることを知らない観客にはほぼ解らない程度に。「恋人たちの曲/悲愴」を観ている人は知っている)最初は拒むが、恐らく資産家の娘らしい先方のお金と劇の終盤で台詞で出て来るように同性愛者であることを誤魔化すために結婚する。
しかし、そんな状態だからチャイコフスキーは細君から離れて離婚を求めて来る。最初の求愛から常識外れとしか見えないアントニーナはストーカー気質をいよいよ発揮、先方の使わす弁護士をうるさがる一方、自分の弁護士と関係を持って3人の子まで設ける。
結局まともに会ってもらえないうちに1893年チャイコフスキーはコレラで病死する。
冒頭で、彼の遺骸が置かれた部屋にアントニーナがやって来ると、死んでいたはずのチャイコフスキーが突然起き上がり文句を言い始める。
これが(彼女の立場での)幻想であることはすぐに解るが、監督が全編幻想だらけだった「インフル病みのペトロフ家」のキリル・セレブレンニコフだから、さもありなんの描写と言うべし。
この監督は幻想場面で役者を裸にするのも好きなようで、終盤何故かヒロインと男たちが踊る幻想場面で男たちは全裸である。
この映画が時に彼女はチャイコフスキーに会えたように見せているのに対し、最後の字幕で説明されるように、実際のアントニーナは彼が去った後永遠に会えなかったらしい。結婚の16年後1893年にチャイコフスキーは死んでいることを考えると、40年間(1917年に彼女は死去)会えなかったという言い方は大変面白い。
こういう監督の映画は通常の人生劇と同じように見てはいけないのだろうが、場面の繋ぎがかなりぎくしゃくしてスムーズではないので、ヒロインの強烈な性格が興味深いとは云え、映画として余り高く評価しづらい。
文豪ヴィクトル・ユゴーの娘アデルもストーカー気質で、その生涯は「アデルの恋の物語」で描かれましたね。
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