映画評「フェラーリ」

☆☆☆(6点/10点満点中)
アメリカ=イギリス=イタリア=サウジアラビア合作映画 監督マイケル・マン
ネタバレあり

自動車メーカー、フェラーリの創設者であるエンツォ・フェラーリの伝記映画であって、メーカーのフェラーリ、あるいはレーシング・コンストラクターのフェラーリを主題にした映画ではない。
 当然どちらも絡んではいるし、レース場面もある程度出て来るが、それはメーカーとしてのフェラーリ、最終的にエンツォの人生にどう影響するかを見せる為のエレメントとして出て来るのである。

レーサー出身のエンツォ(アダム・ドライヴァー)が自動車会社を興して28年後の1957年、自動車メーカーとしての今後を左右するレースに苦戦するだけでなく、前年息子ディーノことアルフレードを病死で失ったことから、共同経営者である妻ラウラ(ペネロペ・クルス)との仲が険悪になる。
 その憂鬱を癒すのが戦争末期からの関係である愛人リナ・ラルディ(シェイリーン・ウッドリー)とその間に出来た息子ピエロ(ジュゼッペ・フェスティネーゼ)と過ごす時間であるが、二人は日陰の存在であり、控えめなリナにも息子の認知は譲れないところであり、これはこれで落ち着かない要素ともなる。
 彼がメーカーの命運をかけたミッレ・ミリアなる公道レースで、雇ったばかりの有望若手レーサー、アルフォンソ・デ・ポルターゴのマシーンが欠片を踏んで横転、本人と9人の観客が死亡するという事故を起こす(ミッレ・ミリアはこれをもって中止)が、最終的にメーカーの責任はなしとされ、またその前にフォード(への売約という嘘)をだしにフィアット社の援助を引き出す当たりを付ける(傘下に入るのは69年)。
 ラウラは自分が死ぬまでピエロの認知はさせないと宣言する。彼女の死後ピエロが認知されたのは言うまでもない。

一代記(紀伝体)ではなく、1957年を切り取る形で(時期あるいは主題を絞って)見せるのは近年の伝記映画の典型的なスタイル。そのスタイルにより打ち出されるテーマはエンツォの処世術といったところ、その中心となるのは妻と愛人との狭間で揺れる彼その人である。

しかし、このくらいの特殊性であれば、フィクションでも良いような気がする。現在の映画界がドラマという分野において実話や伝記に頼るから、優秀な創造的脚本家が減っていくのである。

実話や原作ものには脚色という腕の見せ所もありますが。世の中には原作ファンという原理主義者がいて、余程うまく作らない限り文句を言われますが、余り気にしてはいけません。原作へのリスペクトという観念は好きではない。ヒッチコックは映画の価値は物語(原作)の面白さとは別のところにあるとし、原作から変えることを喜びとしていた。

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