映画評「ガンファイターの最後」

☆☆★(5点/10点満点中)
1969年アメリカ映画 監督アラン・スミシー(ドン・シーゲル、ロバート・トッテン)
ネタバレあり

いつか解らないが、恐らく衛星放送の初期くらいにTVで観たと思う。

少年時代の僕の英雄であったリチャード・ウィドマークがある時点以降の役柄の人物を演じている。初期の頃は悪役だったが、途中で訳ありの善人を演ずることが多くなった。その頃の作品で好きだったのが「太陽に向って走れ」(1955年)と「襲われた幌馬車」(1956年)で、他人をリードするなり統率なりする行動力のある姿が格好良かった。

それから十数年経った彼は、老いを自覚するある町の保安官である。正義の為に人を致死させることもあるが、何も悪いことをしているとも思えないのに、町の重鎮方の弱みを知っているというだけで嫌われ、その為にある男が自殺し、そしてその息子(実は死んだ男が殺した相手の息子)も復讐しようとして正当防衛で殺されてしまう。
 かくして、追い出す手段の尽きた重鎮方は徒党を組んで、一人屋外に出て来た彼を高所から次々と弾丸を撃ち込んで殺す。

実に後味の悪い作品で、主人公がろくでなしばかりの町を守ろうとする気持ちが全く理解できないので、空しい内容という印象を禁じ得ない。古い西部男の人生を生きようとした「トム・ホーン」(1980年)の主人公のような心境かもしれないものの、あの映画はそれを洞察させるだけの描写があったのに、こちらにはない。脚本の力が足りないと思う。

映画マニアならご存じのように、アラン・スミシーという監督は実在しないわけで、この映画はごく一部をご贔屓ドン・シーゲル、その他の部分をロバート・トッテンが撮っているが、序盤と最後だけタッチがタイトなのでこちらがシーゲルだろう。

性交もしくはマスターベーションを暗示しようとしているように見える(厭らしい)場面がある。
 ウィドマークを慕う若者マイケル・マクグリーヴィーが懸想する女の子が窓を拭いている姿を見る。スカートを少々まくり上げ下着が見えている。彼女は腰を上下に振っている。彼は何度か木を割り、井戸水をくむ為にポンプでピストン運動を繰り返す。これは性交もしくは自慰そのものではないか? トッテンはおっとりした作品を撮るタイプだから、あるいはプロデューサー辺りの変態趣味かもしれぬ。

保安官が、何か感じるものがあったか、死の直前に結婚する中年美人をミュージカル映画でお馴染みの歌手リナ・ホーンが演じている。このお話自体が彼女の回想という形式である。リナには黒人の血が4分の1入っていて、ムラートならではの魅力がある。そんな彼女を保安官と結婚させる辺りは、アメリカン・ニューシネマ時代(本作はニューシネマではない)の作品らしい反体制的態度の現れなのかもしれない。

紛らわしいことに「最後のガンファイター」(1965年)という映画もあるデス。

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