映画評「吸血鬼ノスフェラトゥ」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1922年ドイツ映画 監督F・W・ムルナウ
ネタバレあり
諸事情(著作権問題か作者遺族の非許可)で舞台や登場人物の名前が変えられたが、ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」の最初の映画化である。
舞台は1838年の北ドイツの町ヴィスボルク(実際にはブレーメン)。1838年にブレーメンでペストによる大量死が発生したことと吸血鬼を関連付けてこの年とこの都市にしたらしい。
不動産屋クノック(アレクサンダー・グラナッハ)に雇われた新婚青年フッター(グスタフ・フォン・ワンゲンハイム)は、愛する妻エレン(グレタ・シュレーダー)の留めるのを振り切って、トランシルヴァニアに住むオルロック伯爵(マックス・シュレック)と契約を結ぶ為に同地に急行する。
辺鄙な土地に迎えてくれた伯爵は、ナイフで負傷して血を出した彼の指をなめ始める。フッターは不気味さに慄く一方で、翌朝首に付いた二つの傷を蚊のせいと誤解する。契約締結の後伯爵はエレンの写真を見て自らの孤独を癒すその美しさに惹かれ、遥か彼方にいながら、元々感応力がありそうなエレンに影響を与え始める。
棺桶に眠る伯爵を見て吸血鬼である正体を知ったフッターは故郷に舞い戻る道を急ぎ、伯爵は土を詰めた柩を大量に送付する。その柩を輸送する貨物船はペストの感染あるいは伯爵により全員が亡くなった状態でヴィスボルクに到着する。ただ一つ残った船長の遺骸を調べてペストと判明した町では、精神病院に入れられるも脱走したクノックが元凶であると町民が彼を襲撃する。
が、伯爵がエレンに夢中になるうちに夜が開けるのに気付かず滅びてしまい、彼の臣下であるクノックも死ぬ。
後半のお話は原作と全然違う。原作にあった襲われた者も吸血鬼化するという設定が無視されシンプルになっている。ただ、吸血鬼が差別・排除される存在であり孤独を感じていたという部分は感覚的に共通するものがあり、とりわけ本作では、吸血鬼が自らの存在消滅より孤独でなくなることを喜ぶ境地が具体的に表現される。他の吸血鬼映画では余り味わえないもので、じーんとはしないが、吸血鬼=悪役という単純な図式でないところが原作と共通してなかなかに深い。
本作の吸血鬼は、ペストという死をもたらす病気の具現であり、人間が持つ恐怖を写す鏡である。僕は吸血鬼や狼男を人間の影(恐怖といった感情や狂信といった行動)を示す存在と言ってきたが、この映画を観てもそれは感じる。
ストーリー展開はサイレント映画がやっと本格的なストーリーテリングを手に入れてさほど経っていない時代にあってかなりきちんと展開していて僕はかなり感嘆したが、それ以上にドイツ表現主義らしい画面が絶大な魅力で、とりわけお気に入りなのは船舶のショット群である。陶酔させられてしまう。戦前の映画らしく影の使い方もうまく、エレンに伯爵の手が投影されるところが良い。
舞台が複数ある為にカットバックが多用されて、後半、故郷に急行するフッター、彼を待つエレン、町へ向かう伯爵の三者を並行描写が断然の迫力を生んでいる。現在カットバックはやり方次第というところをまま感じるが、この時代においてはシンプル故にサスペンスに貢献することが多い、と僕は思う。
F・W・ムルナウはやはり凄い。
本作が作られた1922年ナチスが誕生する。この映画の人々がクノック排除に見せる狂信は偶然にもナチスのそれを感じさせる。今回の選挙で衆議院で2/3を超える議席数を自民党が持ったことで、もはや維新と与党を組む必要すらなくなり、参議院における野党の過半数超えの意味がなくなった。ねじれ国会は時間稼ぎの機能しかなくなり、与党が成立を欲する議案は全て通ることになる。2026年は、 後になって “あの年が・・・” と国民が後悔する年になる可能性がかなりある。高市首相が現在想像されるより国民に寄った政策をすることを願う。
1922年ドイツ映画 監督F・W・ムルナウ
ネタバレあり
諸事情(著作権問題か作者遺族の非許可)で舞台や登場人物の名前が変えられたが、ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」の最初の映画化である。
舞台は1838年の北ドイツの町ヴィスボルク(実際にはブレーメン)。1838年にブレーメンでペストによる大量死が発生したことと吸血鬼を関連付けてこの年とこの都市にしたらしい。
不動産屋クノック(アレクサンダー・グラナッハ)に雇われた新婚青年フッター(グスタフ・フォン・ワンゲンハイム)は、愛する妻エレン(グレタ・シュレーダー)の留めるのを振り切って、トランシルヴァニアに住むオルロック伯爵(マックス・シュレック)と契約を結ぶ為に同地に急行する。
辺鄙な土地に迎えてくれた伯爵は、ナイフで負傷して血を出した彼の指をなめ始める。フッターは不気味さに慄く一方で、翌朝首に付いた二つの傷を蚊のせいと誤解する。契約締結の後伯爵はエレンの写真を見て自らの孤独を癒すその美しさに惹かれ、遥か彼方にいながら、元々感応力がありそうなエレンに影響を与え始める。
棺桶に眠る伯爵を見て吸血鬼である正体を知ったフッターは故郷に舞い戻る道を急ぎ、伯爵は土を詰めた柩を大量に送付する。その柩を輸送する貨物船はペストの感染あるいは伯爵により全員が亡くなった状態でヴィスボルクに到着する。ただ一つ残った船長の遺骸を調べてペストと判明した町では、精神病院に入れられるも脱走したクノックが元凶であると町民が彼を襲撃する。
が、伯爵がエレンに夢中になるうちに夜が開けるのに気付かず滅びてしまい、彼の臣下であるクノックも死ぬ。
後半のお話は原作と全然違う。原作にあった襲われた者も吸血鬼化するという設定が無視されシンプルになっている。ただ、吸血鬼が差別・排除される存在であり孤独を感じていたという部分は感覚的に共通するものがあり、とりわけ本作では、吸血鬼が自らの存在消滅より孤独でなくなることを喜ぶ境地が具体的に表現される。他の吸血鬼映画では余り味わえないもので、じーんとはしないが、吸血鬼=悪役という単純な図式でないところが原作と共通してなかなかに深い。
本作の吸血鬼は、ペストという死をもたらす病気の具現であり、人間が持つ恐怖を写す鏡である。僕は吸血鬼や狼男を人間の影(恐怖といった感情や狂信といった行動)を示す存在と言ってきたが、この映画を観てもそれは感じる。
ストーリー展開はサイレント映画がやっと本格的なストーリーテリングを手に入れてさほど経っていない時代にあってかなりきちんと展開していて僕はかなり感嘆したが、それ以上にドイツ表現主義らしい画面が絶大な魅力で、とりわけお気に入りなのは船舶のショット群である。陶酔させられてしまう。戦前の映画らしく影の使い方もうまく、エレンに伯爵の手が投影されるところが良い。
舞台が複数ある為にカットバックが多用されて、後半、故郷に急行するフッター、彼を待つエレン、町へ向かう伯爵の三者を並行描写が断然の迫力を生んでいる。現在カットバックはやり方次第というところをまま感じるが、この時代においてはシンプル故にサスペンスに貢献することが多い、と僕は思う。
F・W・ムルナウはやはり凄い。
本作が作られた1922年ナチスが誕生する。この映画の人々がクノック排除に見せる狂信は偶然にもナチスのそれを感じさせる。今回の選挙で衆議院で2/3を超える議席数を自民党が持ったことで、もはや維新と与党を組む必要すらなくなり、参議院における野党の過半数超えの意味がなくなった。ねじれ国会は時間稼ぎの機能しかなくなり、与党が成立を欲する議案は全て通ることになる。2026年は、 後になって “あの年が・・・” と国民が後悔する年になる可能性がかなりある。高市首相が現在想像されるより国民に寄った政策をすることを願う。
この記事へのコメント
これは一番好きな吸血鬼映画です。
二番目は「魔人ドラキュラ」。
「吸血鬼ノスフェラトゥ」の芸術性、「魔人ドラキュラ」のベラ・ルゴシの悪魔的魅力、どちらも素晴らしいと思います。
カール・ドライヤー監督「吸血鬼」も同じく優れた作品なのでしょうが、私にとって呪われた映画です。
三回ほど観ているはずなのですが、毎回途中で寝てしまって、いつも気付くと終盤のお爺さんが粉まみれのシーンになっています。
そのため、最初と最後しか内容を覚えていません(笑)
本作も最近リメイクされましたが、今度は「カリガリ博士」もリメイクされるようですね。
書きませんでしたが、当然再鑑賞です。
昔の映画は美しいですよねえ。
>カール・ドライヤー監督「吸血鬼」も同じく優れた作品なのでしょうが、私にとって呪われた映画です。
>三回ほど観ているはずなのですが、毎回途中で寝てしまって
何故かそういう映画がありますね。
僕も「レイダース/失われた聖櫃」で同じところでいつも寝ます。3回目でクリアしたと思いますが^^;
>本作も最近リメイクされましたが
明日アップします^^ゝ