映画評「ゆきてかへらぬ」

☆☆☆(6点/10点満点中)
2025年日本映画 監督・根岸吉太郎
ネタバレあり

詩人・中原中也の内妻の女優・長谷川泰子と評論家・小林秀雄の奇妙な三角関係は、僕のような古典文学愛好家には非常に有名。日本は個別の実話ネタ映画は限られる中、伝記映画はぼつぼつと作られてきた。今世紀に入っても太宰治や北原白秋など文学者の伝記的作品が発表された。北原白秋が映画になるなら中原中也がなってもおかしくない。そんな印象である。
 大正時代が得意な田中陽造がかなり前に書きながらお蔵入りになっていた脚本とのこと。監督は文芸ものが目立つ根岸吉太郎。

1924年の京都。17歳の中学生(現在の高校生に相当)のダダイズム詩人中原(木戸大聖)が、二十歳の女優志願・泰子(広瀬すず)と知り合い、住む場所のない彼女を下宿に住まわせるようになる。やがて年上の先輩詩人富永太郎が病気で戻っていった東京へ上ると、そこでフランス語やフランス文学に詳しい新進評論家・小林(岡田将生)の高い評価を受け、彼らは親しい関係になる。
 泰子は二人の間で揺れ動き、落ち着きのない中原から離れて理知的で安定感のある小林に去るが、彼との生活で潔癖症を発症、これに大いに苦しんだ彼は奈良に去る。
 結局二人との関係を断つことを “不幸の終わり” と称した彼女がそこそこの女優になっていた1937年、小林より中原の訃報が届く。焼かれる前に中原の遺体と小林に逢った彼女は再び “不幸の終わり” と言って去っていく。

大正末期から昭和初期らしい退廃的なムードが漂う世界である。君主制であり、治安維持法もあり、今ほど自由がなかったと思われるこの時代の文化人の奔放であったり豪快であったりした生き方は、色々なコンプライアンスに縛られる今より余程自由であると錯覚させられる。そうした退廃性を帯びた大正デモクラシー後の時代ムードがある程度再現され、一定の興味を喚起する。
 しかるに、映画は時代ムードより、中原のバンカラな純粋さや、ヒロインの奔放のようでいて神経質さを隠し切れない性格を写すことに夢中なので、田中陽造で思い出す「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」ほどの美術の凄味や耽美性はない。

根岸吉太郎は概ね楷書的に進めているが、冒頭の雨が降る場面の呼吸の良さが気に入った。屋根の上に置かれていた柿と中原のさす紅い傘をマッチカットで繋ぐのである。この時の、瓦屋根が両脇に配置される狭い路地を紅い傘が、ドローンを使ってであろうか、真上から撮られるショットが美しい。彼から渡された紅い傘を手に去ろうとした泰子に中原が二階から声をかけるという流れが文学的。彼らがこの時初めて会ったのではないのに、初めて迎え入れるようなセリフが何と詩人らしい洒落た感覚の発揮だろうと唸った。
 余りそれを意識させないようなカットの省略を随所に使ってそこはかとなく映画ムード醸成に効果を発揮しているのも映画マニアであればお気づきになると思う。この辺りがベテランなのである。

最近豪快・奔放な役が増えている広瀬すずの起用は概ね適当であったと思うが、現在ならともかく戦前の暗さを内に持つ蓮っぱぶりを見せるのは少々ハードルが高かったかもしれない。

17歳と詩人と言えば、この年齢で死んだ僕の後輩・山田かまちを思い出させます。1年生が夏休みの間に感電で亡くなったと校長が沈痛な面持ちで報告されたのが忘れられない。

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