映画評「パリピ孔明 THE MOVIE」
☆☆★(5点/10点満点中)
2025年日本映画 監督・渋江修平
ネタバレあり
四葉タト(ストーリー)小川亮(画)なるコンビによる人気コミックのTVドラマ版の映画版である。タイトルから凡そ解りますかな。
奇想天外なのは、諸葛孔明(向井理)がその死後現在に生前の姿で甦り、音楽業界の軍師として活躍するという着想である。日本人はあるいは中国人以上に三国志が好きかもしれないが、こんな着想もあるかと感心させられる。
孔明は、インディレーベルで奮闘するシンガー・ソングライター月見英子(上白石萌歌)が主君劉備(ディーン・フジオカ)としか思えず、三大レーベルが競い合うイベントにその一つKEY TIMEに臨時的に所属させ、彼女の活躍で同レーベルを勝たせ、彼女のメジャー・レーベルへの移籍を目論む。
勿論、三大レーベルの争いは魏・呉・蜀三国の覇権争いに模したわけで、敵対する勢力が孔明のかつてのライバル司馬懿の子孫司馬潤(神尾楓珠)を軍師として雇って、かつての作戦を駆使し合って丁々発止の闘いを繰り広げる。
しかし、孔明は、英子と司馬潤の妹 shin(詩羽)の歌を聴くと、あの世に繋がるとされる門の夢を観始め、二人の歌を聴かずに作戦を繰り出さねばならぬというジレンマを抱えて当惑する。
彼女の歌を聞かず、かつ、彼女の歌を世に広めるという彼の生存にとって二律背反する状況で悪戦苦闘しなければならないのがドラマ上の肝だろう。英子にしても頼りにする孔明の為に歌を止めようと思うジレンマを抱える。最近の邦画が好きな二重奏のパターンと言うべし。
着想そのものには大いに興味が湧くが、三国志に疎い向きには、それが具体的な展開の面白さに繋がっているとは言いにくい。
上戸彩、水森かおり、岩田剛典などが実名で出ていることもあり、最近のパフォーマーに疎い為に、他のアーティストが実在なのか否か結構混乱(&TEAMなど知らんぞ)するのも、高齢者にはどうかという感じだ。この映画の場合は実在のパフォーマーは出さない方が良かったかもしれない。
映画の出来栄えとは余り関係ないが、個人的に、僕は純然たる、それも古臭いタイプの音楽ファンだから、ビジュアル的に勝負する群舞グループには全く興味がないし、彼らの歌うのが部分的にラップ要素を使うものであるのも苦手で、しかもこの手は僕の嫌いなオート・チューンを使う人が多い。紅白の前半同様、この手が半分くらい占めるので音楽的な興味が盛り上がりにくいということもある。
やはり僕はヒロインや shin の歌うような所謂 “歌” が好きだ。 これらの歌は確かに純粋に歌として感動的で、司馬潤の音楽観更新はむべなるかなの思いを強くする。しかし、この映画のようなTV的なノリは、高齢者向きとは言えないので、ある年齢以上の方は観なくてよろしい。
パリピは、パーティー・ピープルのことだそうな。孔明については、日本では諸葛亮孔明と言うことも結構あるが、亮は諱(成人の本名)で孔明は字(よく使う通称)。諱と字を併記することは諸葛亮以外一般的にあらず。例えば、大文学者の白居易は字を楽天とするが、白居易楽天などと言うことはない。成人前と成人後の名前が違うなど中国人の名前はややこしい。日本は中国の模倣をし、さらに途中から姓に苗字が加わったからある意味もっとややこしい。現在日本人が姓と言っているのは、日本史的に言えば、苗字である。徳川家康の姓は源(自分で勝手に称しているだけだろうが)で、徳川が苗字。フルネームは徳川・次郎三郎・源・朝臣・家康だ。強制的夫婦同姓を続けると、500年後には苗字が佐藤だけになってしまい存在価値を失うので、日本もいずれ選択的夫婦別姓になるわけだが、苗字を残すという意味では江戸時代までと同様に強制的夫婦別姓でも良いくらいだ。尤も300年後までに人口減少の為に日本という国が亡くなるという説(日本語保存を真剣に考える言語学者の説)もある。日本人は残っているが、国の体を成さないというのだ。
2025年日本映画 監督・渋江修平
ネタバレあり
四葉タト(ストーリー)小川亮(画)なるコンビによる人気コミックのTVドラマ版の映画版である。タイトルから凡そ解りますかな。
奇想天外なのは、諸葛孔明(向井理)がその死後現在に生前の姿で甦り、音楽業界の軍師として活躍するという着想である。日本人はあるいは中国人以上に三国志が好きかもしれないが、こんな着想もあるかと感心させられる。
孔明は、インディレーベルで奮闘するシンガー・ソングライター月見英子(上白石萌歌)が主君劉備(ディーン・フジオカ)としか思えず、三大レーベルが競い合うイベントにその一つKEY TIMEに臨時的に所属させ、彼女の活躍で同レーベルを勝たせ、彼女のメジャー・レーベルへの移籍を目論む。
勿論、三大レーベルの争いは魏・呉・蜀三国の覇権争いに模したわけで、敵対する勢力が孔明のかつてのライバル司馬懿の子孫司馬潤(神尾楓珠)を軍師として雇って、かつての作戦を駆使し合って丁々発止の闘いを繰り広げる。
しかし、孔明は、英子と司馬潤の妹 shin(詩羽)の歌を聴くと、あの世に繋がるとされる門の夢を観始め、二人の歌を聴かずに作戦を繰り出さねばならぬというジレンマを抱えて当惑する。
彼女の歌を聞かず、かつ、彼女の歌を世に広めるという彼の生存にとって二律背反する状況で悪戦苦闘しなければならないのがドラマ上の肝だろう。英子にしても頼りにする孔明の為に歌を止めようと思うジレンマを抱える。最近の邦画が好きな二重奏のパターンと言うべし。
着想そのものには大いに興味が湧くが、三国志に疎い向きには、それが具体的な展開の面白さに繋がっているとは言いにくい。
上戸彩、水森かおり、岩田剛典などが実名で出ていることもあり、最近のパフォーマーに疎い為に、他のアーティストが実在なのか否か結構混乱(&TEAMなど知らんぞ)するのも、高齢者にはどうかという感じだ。この映画の場合は実在のパフォーマーは出さない方が良かったかもしれない。
映画の出来栄えとは余り関係ないが、個人的に、僕は純然たる、それも古臭いタイプの音楽ファンだから、ビジュアル的に勝負する群舞グループには全く興味がないし、彼らの歌うのが部分的にラップ要素を使うものであるのも苦手で、しかもこの手は僕の嫌いなオート・チューンを使う人が多い。紅白の前半同様、この手が半分くらい占めるので音楽的な興味が盛り上がりにくいということもある。
やはり僕はヒロインや shin の歌うような所謂 “歌” が好きだ。 これらの歌は確かに純粋に歌として感動的で、司馬潤の音楽観更新はむべなるかなの思いを強くする。しかし、この映画のようなTV的なノリは、高齢者向きとは言えないので、ある年齢以上の方は観なくてよろしい。
パリピは、パーティー・ピープルのことだそうな。孔明については、日本では諸葛亮孔明と言うことも結構あるが、亮は諱(成人の本名)で孔明は字(よく使う通称)。諱と字を併記することは諸葛亮以外一般的にあらず。例えば、大文学者の白居易は字を楽天とするが、白居易楽天などと言うことはない。成人前と成人後の名前が違うなど中国人の名前はややこしい。日本は中国の模倣をし、さらに途中から姓に苗字が加わったからある意味もっとややこしい。現在日本人が姓と言っているのは、日本史的に言えば、苗字である。徳川家康の姓は源(自分で勝手に称しているだけだろうが)で、徳川が苗字。フルネームは徳川・次郎三郎・源・朝臣・家康だ。強制的夫婦同姓を続けると、500年後には苗字が佐藤だけになってしまい存在価値を失うので、日本もいずれ選択的夫婦別姓になるわけだが、苗字を残すという意味では江戸時代までと同様に強制的夫婦別姓でも良いくらいだ。尤も300年後までに人口減少の為に日本という国が亡くなるという説(日本語保存を真剣に考える言語学者の説)もある。日本人は残っているが、国の体を成さないというのだ。
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